执笔者
石田雅春
Ⅰ ビル?シェリフ氏の略歴と史料群の概要
ビル?シェリフ(Bill Sherriff)氏は、本名をウィリアム?ジョージ?シェリフ(William George Sherriff)と言い、1927年にオーストラリアに生まれた。地元の高校を卒業後、1945年4月にオーストラリア陸軍に入隊し、パプアニューギニアの戦争捕虜収容所などでの勤務を経て、1948年2月から1953年3月まで約5年間、英連邦占領軍(BCOF/British Commonwealth Occupation Force)の一員として日本で勤務した。日本勤務中は、主に広島県呉市(旧呉市内および広町)と宮島町で仕事を行った。この間にBCOFへタイピストとして勤務していた片山千鶴氏と知り合い、結婚することとなった。
そして1953年4月にオーストラリアへ帰国した后も、シェリフ氏は引き続き陆军に勤务した。その后、ベトナム戦争への従军などを経て1980年に大尉で退役し、2009年5月に82歳で亡くなった。(経歴については、后掲附表1を参照。)
本史料群は、こうしたビル?シェリフ氏の所蔵史料のうち、占领军の一员として日本に滞在していた期间中に撮影した写真约800点とその関连史料から构成されている。これらの写真の中には、当时贵重だったカラースライドフィルムで撮影されたもの约350点が含まれており、记録资料としての学术的価値が高い。また白黒写真についても、日本人の立ち入りが规制されていた进驻军の基地内部の写真が多数含まれている。こうした写真は日本人が撮影しているものが少ないため、地域史の记録として贵重である。
以下、本史料群が広島大学文书馆に収蔵された経緯と、その概要について紹介する。
Ⅱ 史料の発见と企画展の开催
本史料群を日本へ本格的に绍介するきっかけを作ったのは、小田和美(おだ?たかみ)氏であった。小田氏は、1985年「ヒロシマ?デー国际电话プロジェクト」*1をきっかけとして本史料群の存在を知ることとなった。1991年有限会社コンベンション?クリエイトに勤めるようになった小田氏は、本史料群を戦后50年记念事业向けに活用したいと考え、1991年4月にシェリフ氏に书简を送り、広岛関係の写真のプリントを送付するよう依頼したのであった。
この小田氏の依頼を受けて、シェリフ氏より写真のプリントが送付されてきた。同时に、必要な写真のネガは、翌年予定の访日时に持参できると记されていた。この时に送られてきた写真は、広岛市および呉市周辺の写真が中心であった。そこで小田氏が広岛市の文化课と呉市の市史编纂室に连络したところ、双方とも全写真の収集及び利用に前向きな姿势を示した。
1992年9月28日~10月4日、シェリフ夫妻が40年ぶりに広島を再訪した。この際にシェリフ氏は、200枚以上の写真スライドとネガを持参し小田氏に預けた。そこで小田氏は、シェリフ氏の了解のもと、これらの写真とネガを広岛市公文书馆と呉市市史編纂室に提供した。これを受け両機関では、それぞれが経費を負担して複製プリントを作成した。
こうしたなか小田氏に対して写真展开催の提案があり、1993年2月2日~28日に広岛市滨狈础齿スペースにおいて企画展「アッケラ観贬滨搁翱厂贬滨惭础 オーストラリア兵?シェリフ军曹の呉、広岛1948年~1953年」が开かれた*2。この写真展では、松林俊一氏(当時広岛市公文书馆の担当職員)と石丸紀興氏(当時広島大学工学部助教授)、小田和美氏が中心となって写真の選定とキャプションの作成を行った。
これに続いて1993年5月31日~6月6日に呉市の市役所ロビーにおいて企画展「写真展 出会って くれ―进驻军ビル?シェリフの见た呉?広岛」が开催された。この写真展では、企画に当たって呉市の市史编纂室の千田武志氏や市民有志の协力も得て実行委员会を结成して準备が进められ、広岛で使用された写真パネル(22枚)に加えて呉方面の写真のパネル(30枚)を作成して展示が行われた。追加の写真パネルは、呉市の市史编纂室の协力のもとで石丸氏、小田氏が中心となってキャプションを加えて作成を手がけたのであった。この企画展开催中に多くの市民が访れ、その証言によって新たに撮影场所や人物が特定できたものがあった。
これらの企画展で利用されたスライドやネガは、1993年6月に小田氏がオーストラリア?メルボルンにあったシェリフ氏の自宅まで直接持参して返却した。その后、これらの写真の取り扱いをめぐり小田氏と広岛市?呉市との间で协议する机会があった。その结果、上记の写真の利用にあたっては、小田氏を通じてシェリフ氏の许诺を得ることが确认された。
また、2004年にシェリフ氏と子女3人が再来日することとなった。これを受けて小田氏が中心となって、2004年5月24日~6月1日に広岛市の旧日本银行広岛支店において企画展「豪兵 ビル?シェリフが写した広岛/呉/宫岛 写真展 戦后復兴とくらし」、2004年7月1日~19日に音戸観光文化会馆うずしおにおいて企画展「豪兵 ビル?シェリフが写した音戸/広岛/呉/宫岛」を开催した。この时は、追加プリント数点と、上述の企画展の写真パネルを一部修正して使用した。
こうした一连のできごとを経て、本史料群の存在は広岛県を中心に知られることとなった。(报道や利用の実绩については、后掲附表2~4を参照のこと。)ただ、后述のように、この过程で绍介された写真は、シェリフ氏が所蔵していた写真の一部に过ぎず、今回の史料収集によって新たに多数の写真が発见されたのであった。
Ⅲ 広島大学文书馆への収蔵経緯
さて、2009年5月にシェリフ氏が死去した。すでにシェリフ氏の妻千鶴氏も他界しており、その自宅が処分されることとなった。これを受け史料の散逸を危惧した小田和美氏から広島大学文书馆に史料の保存について最初の相談があり、同年9月に小田氏がオーストラリアに直接赴いて、シェリフ氏の写真関連遺品を整理された。その結果、フィルムの劣化が進んでおり、一部のものは復元不可能な状態になっていることが確認された。また、これまで広岛市や呉市が複製を作成したもの以外にも、多くの写真のネガおよびスライドが残されていることが明らかになった。しかし、そのままでは場所の特定ができないものも多く、まず日本で調査研究することが必要と認識された。
そこで広島大学文书馆としては、シェリフ氏の娘で、日本関連の遺品の相続人と決まったアン?チジー(Ann Chidgey)博士にフィルムを寄贈してもらう方向で打診したが、同意を得られなかった。しかしながら史料の学術的価値とその保存環境を考えると、そのまま放置することは問題だと思われた*3。そこで代わりに高精度のデジタル?データで複製を作成し、そのデータを広島大学文书馆が保存?活用することで当初の目的を達成することとした。
こうした方针に基づいて、小田氏の渡豪とチジー博士の来日の际に复製作成のための史料の贷し出しを受けるとともに、2010年よりデジタル?データの使用条件についてチジー博士との折衝を始めた。ただ、着作権の调整は専门知识を必要とすることがらである上、欧米の惯习を踏まえて英文で契约书を作成する必要があったため、原案の作成にあたっては、広岛大学の产学?地域连携センターの山本宏教授の支援を仰いだ。こうして作成した契约书の原案をもとに、数度に渡るやり取りを経て、2012年6月にチジー博士と広岛大学の间で着作権の许诺に関するライセンス契约を缔结したのであった。
Ⅳ ライセンス契约の概要
本史料群の利用方法と密接に関わってくるため、ここでチジー博士と広岛大学の间で结ばれたライセンス契约の概要について绍介しておく。
本契約は、シェリフ氏の相続人であるチジー博士と広島大学(主管は文书馆)の間で締結したものである。この契約に基づいて広島大学文书馆は、自らの費用で原著作物を複製したデジタル著作物(原著作物のデジタル?データをデジタル記憶媒体に収録してデジタルアーカイブにしたデータベース)を作成し、非営利、教育?学術研究目的で利用する広島大学の構成員(教職員及び学生)にデータを提供できるのである。
一方、本契約では第三者(広島大学の構成員以外)に対して著作権のライセンスが許諾されていないため、広島大学文书馆およびデータの提供を受けた広島大学の構成員は、第三者へデータを提供することはできないこととなっている。すなわち広島大学の構成員は提供されたデータを、複製、配信(インターネットなど)、展示、公開、授業や研究報告などで使用できるものの、第三者の手にデータが渡らないようにしなければならない。
たとえばインターネットで写真を公开した场合、データのダウンロードを防止するための措置を讲じる必要がある。また展示会等で写真を展示する场合も、カメラでの撮影を禁止する必要がある。
ただ、写真の閲覧をさせることは認められているので、第三者(広島大学の構成員以外)は広島大学文书馆において写真を閲覧することができる。もし、データの複写や利用が必要な場合は、改めてチジー博士の了承を得ることとある。(この場合、小田氏を通じて申請する形となる。)
なお、利用にあたっては、次记のような形式で着作権の表示を行うことが义务づけられている。
Ⅴ 史料の概要と整理の特徴
さて、上述のような経緯で広島大学文书馆は、シェリフ氏の関係文書を収蔵するに至った。その主な内訳は次記のようなものである。
| 分 类 | 内 容 | 点 数 |
|---|---|---|
| 1. 写真 |
(1)础グループ(白黒) |
287点 233点 3587点 |
| 2. 文書 (シェリフ氏関係分) |
(1)执笔原稿関係 (2)叠颁翱贵退役军人协会机関誌 |
23点 105点 |
| 3. 文書 (小田氏関係分) |
(1)シェリフ氏执笔物コピー (2)シェリフ氏関係资料 (3)书简类 (4)写真展?报道関係 (5)収集?整理経纬関係资料 (6)物品?写真プリント |
42点 |
| 4. 写真パネル | 写真パネル | 52枚 |
注)令和2年に白黒写真1点の追加寄赠があったため、1.写真(1)Aグループ
(白黒)の点数を286点から287点へ修正した。
収蔵の経纬の概略は、すでに述べた通りである。しかしながらそれぞれの史料について、いろいろな経纬があるため、以下、分类ごとに史料の成り立ちについて説明する。
1. 写真
シェリフが撮影し、チジー博士が着作権を相続した写真のことである。日本に深い関心を寄せていたシェリフ氏は、さまざまな机会に日本に関する写真を撮影している。すなわち濒953年にオーストラリアに帰国した后も、雑誌记事の写真など日本の风俗や文物に関するものを写真撮影していることが确认できる。こうして撮影された写真は、フィルムを切断しスライドの形に加工されて整理?保管されており、コマの前后関係が不明确な状态となっていた。また、上述の写真展で使用された写真は、こうした所蔵写真のなかからシェリフ氏が选别して提供したものである。
このため、どのスライドがどこから出され、どこに戻されたかは、シェリフ氏本人しか分からない状态であったと推定される。シェリフ氏の死后、2009年9月と2011年12月の2回にわたり、小田和美氏が遗品の整理と史料の収集を行った。この过程においてスライドのリストが复数种类発见された。しかしながら、これらのリストは必ずしも现物と一致しておらず、数次にわたってスライドの入れ替えが行われたと推定される。(スライドの上部に番号の书き込みが复数种残されているのは、こうしたスライドの顺番入れ替えの际にシェリフ氏が书き込みを行ったためと思われる。)
こうした状况のもとで史料の整理と収集を行うこととなった小田氏は、まずシェリフ氏が以前日本に持参した既知の写真のネガおよびスライドを抽出し、その上で、残されたネガおよびスライドの中から日本を撮影したと思われるものを选定していった。こうして抽出したネガおよびスライドを小田氏は、白黒についてはAとB、カラーについてはC1~C5というグループにわけて、机械的にナンバリングして一覧表を作成した。そしてこの一覧表に基づいて、复製データ作成のためチジー博士からネガおよびスライドを借用し日本へ持ち帰った。
现在、写真の目録番号に付与されているA?B?Cはこうした事情のもと、便宜的に付けられた番号である。しかしながら、この番号の配列のままでチジー博士のもとへネガおよびスライドを返却しており、现在もこの状态で保管されている。このため今后、复製データとネガの照合を行う际の利便性を考え、目録の史料番号として採用した。
また、これに関连して写真の目録番号に欠番が生じている。すなわち限られた滞在时间の中で上述のような选定作业を行ったため、日本に持ち帰ったネガおよびスライドの内容を小田氏が再点検したところ、占领期の日本関係以外のものが混じっていた。そこで复製データの作成にあたり、こうした日本以外のものを対象から除外した。このため当该部分が欠番となったのである。
なお、上述のようにフィルムがスライド加工してあったため、コマの前后関係が不明で撮影地の特定ができない写真が少なからずある。现在のところ、広岛、呉、江田岛、岩国、および宫岛のほかに东京、伊豆、鎌仓、富士山、大阪、神戸、玉造、松山、别府、长崎、云仙、熊本の写真が确认できる。このうち広岛、呉、江田岛、岩国、宫岛、鎌仓については、上述の写真展开催の际に撮影地が特定されたものが多い。また松山については伊予史谈会の会员の方々、広については広郷土史研究会の会员の方々、江田岛については宇根川进氏のご协力を得て特定することができた。しかしながら撮影地不明の写真が少なからず残されており、これらの特定が今后の课题である。
2. 文書(シェリフ氏関係分)
(1)执笔原稿関係
これはシェリフ氏がオーストラリア军の兵士として呉に勤务していた时に、広岛の原爆被害についてまとめた“贬滨搁翱厂贬滨惭础”の原稿の一部*4と、事実関係の紹介や資料引用の許諾申請などの関連資料である。2009年9月の遺品整理時に見つかり、1. の写真のネガと同時にチジー博士より複製の作成と公開の許諾を受けたものである。すべての文書は、デジタルカメラによる写真撮影と複写機による電子複写で複製を作成した。
(2)叠颁翱贵退役军人协会机関誌 “SHIMBUN” または “SHINBUN” BCOFVeteransAssociationofAustralia
本文书は、小田和美氏がシェリフ氏を通じて入手したものと、シェリフ氏の遗品から成り立っている。すなわち1992年10月顷、小田氏の求めに応じてシェリフ氏が48号までのバックナンバーを入手?送付してきたそうである。叠颁翱贵退役军人协会机関誌は、1979年9月に创刊され、第36号1989年12月号から第97号2000年5?6月号までは、日本人妻の豪入国に初めて成功したゴードン?パーカー氏が编集していた机関誌である。(远藤雅子『チェリー?パーカーの热い冬』〈新潮社、1989年〉参照)。シェリフ氏も、同じメルボルン在のパーカー编集长时代を中心に、日本占领时代の思い出などを同誌に何度か寄稿していることが确认できる。
2009年9月の遺品整理時に、小田氏が不足分およびその後のバックナンバーを見つけ、欠号分についてアン?チジー博士から永久に借用することとなった。こうして揃ったバックナンバーについて、今回小田氏が広島大学文书馆に寄贈することとなった。(ただし、チジー博士からの永久借用分は寄託扱いとする。)
3. 文書(小田氏関係分)
本史料は、シェリフ氏と亲交があり、日本での写真展を企画した小田和美氏の関连文书である。交流の过程でシェリフ氏が小田氏に送った文书、物品や书翰と、小田氏が携わったシェリフ氏所蔵写真の展示会や利用许诺に関する文书が、その主な内容である。写真の収集や展示会等での利?活用の経纬が分かるため、小田氏より一括して寄赠をいただくとともに、関係文书として採録した。
4. 写真パネル
上述の写真展のために作成された写真パネルである。キャプションの执笔は、石丸纪兴氏、小田和美氏、松林俊一氏が分担して行った。写真展终了后は、小田氏が写真パネルを譲り受け保管していた。この写真パネルについても、関连史料ということで小田氏より寄赠を受けた。
ただ、写真のネガをもとにデジタル?データを作成する際には、その時のネガの状態(特にカラーの場合は変色のおそれがある)や使用機器、担当者の技倆によって、データの仕上がりに差が出ると推定される。このため今回、広島大学文书馆が作成したネガのデジタル?データが必ずしも最良のものであるという保証が得られないため、この写真パネルを単なる複製物と見なすのではなく、オリジナルに準じた史料として保管?管理を行うこととした。
また、これらの写真パネルは、シェリフ氏が小田氏に预けたネガや写真をもとに作成されたものである。しかしながらシェリフ氏の死后、小田氏が旧宅の史料を整理したところ、行方不明になっているものや劣化によりフィルムが破损しているものが6点あった。そこで、これらのものについては、この写真パネルの写真からデジタル?データを作成して「1.写真」の础の末尾に追加した。
なお、当初は、木製のパネル52枚に写真168点が贴り付けてあった。しかしながら、その状态のままでは専用の保存箱への収纳が难しく、なおかつ木製のパネルがかさばって多くのスペースを必要とするため、长期保存には不向きであった。そこで写真を木製パネルから剥离して中性纸の台纸へ张り替えるとともにた上で、保存箱に収纳する方法を採った。
Ⅵ 本史料群の评価
日本が连合国军によって占领されていた当时、カラーフィルムは高価であった上、日本国内には现像所がなく、ハワイやアメリカ本土のラボへ依頼していた*5。このためカラーフィルムは、事実上、占领军の関係者しか利用することができなかった。こうした希少性に加え、カラー写真は色彩情报を有しており、モノクロ写真よりも史料的価値に优れているという特性がある。こうした点から、ビル?シェリフ関係文书のカラー写真は、记録资料としての学术的価値が高いと评価できる。
ただ、占領期の日本を撮影したカラー写真については、ビル?シェリフ関係文書に限らず、これまでも数多くのものが発見?紹介されてきた。たとえば、進駐したアメリカ軍が組織的に撮影した写真が、米国国立公文书馆で保存?公開されている。このうち沖縄に関するものは、沖縄県公文书馆が収集し「米国政府撮影写真」として公開している*6。これらの写真の中にカラーのものが含まれている。また原爆に関しては、米国陆军病理学研究所(础贵滨笔)から日本に返还された资料の中にカラー写真が含まれており、広岛および长崎の関係机関が所蔵している*7。
その他にも占领军の将兵が个人的に撮影したものとしては、アメリカ陆军の将校だったロバート?スティール氏が撮影?収集した「スティール?コレクション」(约1万点)や骋贬蚕専属カメラマンだったディミトリー?ボリア氏が撮影したカラー写真(约3万点、マッカーサー记念馆所蔵)が知られている。
「スティール?コレクション」については、毎日新闻社が中心となって整理を行い、毎日新闻社编『决定版昭和史』别巻2(毎日新闻社、1985年)や同前『ニッポン40年前』毎日グラフ别册(毎日新闻社、1985年)、同前『にっぽん60年前』(毎日新闻社、2005年)などで一部が绍介された。一方、ディミトリー?ボリア氏の撮影写真については、杉田米行氏によって同氏编着『骋贬蚕カメラマンが撮った戦后ニッポン』(アーカイブス出版、2007年)および同前『続?骋贬蚕カメラマンが撮った戦后ニッポン』(アーカイブス出版、2007年)で绍介されている。
ほかにも、仙台市歴史民俗资料馆*8、东京都江戸东京博物馆*9、呉市史编纂室*10がそれぞれカラー写真のネガやスライドを収蔵している。
以上が、管见の范囲で判明している占领期のカラー写真であるが、いずれもそれぞれの史料群の写真を断片的に绍介するにとどまっている。このため现时点では、残された写真の全体像が把握されていない。今后、各史料群の写真を相互に検証し、より详细な评価を行う必要があると思われる。ただ、それには多くの时间と费用を必要とすることが予想されるため、本解题では今后の课题として指摘するにとどめておきたい。
付表1 ビル?シェリフ氏略歴
| 年月日 | できごと |
|---|---|
| 1927年4月19日 | オーストラリア、ビクトリア州ミルドラ(惭颈濒诲耻谤补)で生まれる |
| 1944年 | ミルドラ高校卒业 |
| 1945年4月 | オーストラリア陆军に入队(18歳) |
| 1946-47年 | 础耻蝉迟谤补濒颈补苍奥补谤骋谤补惫别蝉鲍苍颈迟所属、パプアニューギニア?ラエ戦没者墓地で カメラマンとして勤务 |
| 1947年 | パプアニューギニア?ラバウル戦争捕虜収容所でカメラマンとして勤务 |
| 1948年2月 | 英连邦占领军の一员として惭别谤办耻谤号で呉に上陆 |
| 1948年2月-6月 | 呉BCOF本部管理局で勤務(Staff Sergeant Statistics) |
| 1948年7月-12月 | 宫岛保养所(旧宫岛ホテル)で兵士职业训练校开设準备に従事 |
| 1949年1月-12月 | 呉BCOF本部管理局で勤務(Chief Clerk) |
| 1949年 | 叠颁翱贵内で片山千鹤(タイピスト)と出会う |
| 1950年1月21日付 | 中国新闻で英语本「ヒロシマ」を执笔中のシェリフ军曹が绍介される |
| 1950年4月 | カメラ?ライカとイコンタを基地内で盗まれる。4月29日付で盗难届を提出。 ('A' Branch HQ BCOF,3/1284 Sgt SHERRIFF WG) |
| 1950年1月-53年3月 | BCOF広陸軍本部にて勤務(二等准尉:Warrant Officer Class II) |
| 1952年12月20日 | 呉英国教会で結婚式を挙げる(Warrant Officer:准尉) |
| 1953年4月 | 3月呉港を出港、4月妻とともにオーストラリアに帰国(厂别谤驳别补苍迟:军曹) |
| 1953年6月1日-1955年 | Puckapunyal第一歩兵旅団の書記長として勤務、准尉(Warrant Officer)になる |
| 1955年12月-1966年 | メルボルンの陆军本部で勤务 |
| 1965年 | 中尉に昇进 |
| 1967年-68年 | ベトナム?Niu Datで特別編成部隊の中尉として勤務 |
| 1969-70年 | ノーザンテリトリー州ダーウィン(顿补谤飞颈苍)でオーストラリア陆军中尉 (尝颈别耻迟别苍补苍迟)として勤务 |
| 1971年 | ベトナム?Vung Tauで後方支援部隊の大尉(Captain)として勤務 |
| 1972-1980年 | メルボルンの陸軍本部兵站部で参謀将校(Staff Officer)として勤務 |
| 1980年 | オーストラリア陆军を退役(颁补辫迟补颈苍:大尉) |
| 1992年9月 | 1953年4月の帰国后、初の日本再访 |
| 2002年10月25日 | 妻?千鹤が死去 |
| 2009年5月8日 | メルボルンで死去、享年82歳 |
付表2 これまでの报道実绩一覧(新闻) 平成24年12月现在
| 记 事 名 | 新闻名 | 掲载年月日 | 备 考 下线はシェリフ氏写真使用 |
|---|---|---|---|
| 「被爆から復兴へ力强い市民の姿/ 元豪兵から写真届く/24、5年ごろの街并み」 |
『中国新闻』 | 1985年10月9日 | 写真「中央百货店大売り出し」、 「広岛西向寺再建と原爆ドーム」 |
| 「被爆4年后のドーム周辺/ 撮影の元豪州兵40年ぶり広岛访问/ 今はない「平和塔」対岸にくっきりと」 |
『中国新闻』 | 1992年9月28日 | 写真「ドームと平和塔」 |
| 「こんにちは?ビル?シェリフさん(65)」 | 『中国新闻』 | 1992年10月10日 | |
| 「元豪兵、戦后のヒロシマ写す」 | 『読売新闻』23面 | 1993年2月3日 | 滨狈础齿スペース展示记事 |
| 「五流荘全景写真あった」 | 『中国新闻』14面 | 1993年2月5日 | 滨狈础齿スペース展示记事、 写真「ドームと五流荘」 |
| 「豪州兵が撮った终戦直后の日本」 | 『プロパン新闻』3面 | 1993年2月15日 | 滨狈础齿スペース展示记事 |
| 「天风録」 | 『中国新闻』1面 | 1993年2月6日 | 滨狈础齿スペース展示记事 |
| 小田和美「でるた?千鹤さんのこと」 | 『中国新闻夕刊』1面 | 1993年2月9日 | 滨狈础齿スペース展示记事 |
| 「戦后の呉町并み/豪军人がパチリ/ 31日から呉で写真展/ 市民生活を语る170点/撮影场所の特定呼びかけ」 |
『中国新闻』呉版 | 1993年5月22日 | 呉市役所展示记事、 写真「呉市政50周年花电车」 |
| 「出会って くれ/呉?広岛写真展/ 进驻军人の撮った170点」 |
『読売新闻』 | 1993年5月23日 | 呉市役所展示记事、 写真「呉市政50周年花电车」 |
| 「戦后の生活ぶり生き生き/豪军人が撮った呉。広岛/ 31日から呉で展示/青空市场、纸芝居…」 |
『毎日新闻』 | 1993年5月27日 | 呉市役所展示记事、 写真「呉中通胡讲」 |
| 「进驻军兵士が撮った写真展/呉で始まる」 | 『朝日新闻』呉?広岛版 | 1993年6月1日 | 呉市役所展示记事 |
| 「ニューススクエア/戦后间もない街の风景170枚/ 呉市で写真展/英连邦军兵士撮影/復兴への世相とらえる」 |
『朝日新闻』広岛版 | 1993年5月25日 | 呉市役所展示记事、 写真「呉中通胡讲」、 「呉中通はきもの屋」、 「広岛駅前闇市火事后」、 「1949年呉メーデートラック眼镜桥付近」、 「呉二河プール建设现场よいとまけ」、 「1949年11月呉映画馆前晴れ着の少女」 |
| 「昭和20年代の広岛?呉/戦后のアルバム鲜明/ 呉市役所驻留兵士撮影の写真展始まる」 「败戦から復兴よみがえる広岛?呉/豪军人写真展/庶民イキイキ」 |
『中国新闻夕刊』1面?2面 | 1993年5月31日 | 呉市役所展示记事、 写真「広岛本通布を売る露店」「己斐电停」、 「呉本通チンドン屋」、 「1949年呉メーデー行进入船山付近」、 「広岛流川教会」、 「広岛西向寺再建と原爆ドーム」 |
| 「写真展「出会って くれ―进驻军ビル?シェリフのみた呉?広岛」」 | 『日豪プレス』18面 | 1993年7月 | 呉市役所展示记事、 オーストラリア内発行日本语新聞 |
| 「戦后の苦难まざまざと」 | 『毎日新闻』23面 | 2004年5月25日 | 旧日本银行広岛支店展示 |
| 「ビルさん会场で再会」 | 『中国新闻』 | 2004年5月28日 | 旧日本银行広岛支店展示 |
| 「展示今日まで」 | 『朝日新闻』 | 2004年6月1日 | 旧日本银行広岛支店展示 |
| 「戦后の呉?音戸 日常を切り取る/元驻留豪兵の写真展」 | 『中国新闻』呉?東広島版23面 | 2004年7月2日 | 音戸観光文化会馆うずしお展示 |
付表3 これまでの报道実绩一覧(テレビ) 平成24年12月现在
| 番 组 名 | テレビ局 | 放送年月日 | 备 考 |
|---|---|---|---|
| 「知ってるつもり!?オーストラリア初の戦争花嫁 ―桜元信子」 |
日本テレビ | 1995年4月23日 | |
| 夕方のニュース特集「1枚の写真から―宫岛ホテル」 | テレビ新広岛 | 1995年6月1日 | 宫岛ホテル写真 |
| ニュース「己斐地区再开発」 | 中国放送 | 2003年9月 | 写真「己斐电停」 |
| フランス映像作家作品 (Envie de Tempete Production扱) |
不明 | 2007年 | 3点(ドーム) |
付表4 これまでの利用実绩一覧(书籍) 平成24年12月现在
| 书 籍 名 | 编着者?出版元 | 発行年月 | 备 考 |
|---|---|---|---|
| 『呉の歩み』2 | 呉市史编纂室、呉市役所 | 1996年、増补版2006年 | 写真2点 |
| 『呉市史』第7巻 | 呉市史编纂委员会、呉市役所 | 1993年 | 写真18点 |
| 『呉市史』第8巻 | 呉市史编纂委员会、呉市役所 | 1995年 | 写真25点 |
| 『英连邦军の日本进驻と展开』 | 千田武志着、お茶の水书房 | 1997年 | 写真11点 |
| 『呉?戦灾と復兴-旧军港市転换法から平和产业港湾都市へ-』 | 呉市史编纂室、呉市役所 | 1997年 | 写真1点 |
| 『街のいろはレンガ色―呉レンガ考』 | 呉レンガ建造物研究会、中国新闻社 | 1993年 | 写真1点 |
| 『広岛大学医学部50年史』通史编 | 広岛大学医学部五〇年史编纂委员会、広岛大学医学部同窓会 | 2000年 | 写真1点 |
| 『図説戦后広岛市史 街と暮らしの50年』 | 広岛市 | 1996年、2001年再版 | 写真3点「五流荘」「万年笔売り」「己斐电停」 |
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*1 「ヒロシマ?デー国際電話プロジェクト」(英語名:World Hiroshima Day Telephone Project)」とは、広岛市の平和祈念式典の模様約15分間(献花、黙祷、平和宣言)を、国際電話回線を利用して各国語で生放送し、電話、及び郵便での感想を受け付ける事業のことである。同名のボランティアグループが主催した。
1985年8月6日が第一回で、7カ国語で発信した。オーストラリアには、全豪国営ラジオ放送ABC東京支局を通じて、英語放送がライブで全土にラジオ放送された。シェリフ氏は、この放送を聞き、広島のカラー写真プリント6枚を同封した書簡を送ってきた。同プロジェクトの発案者Raurence Wiig氏(米ハワイ出身)とともにco-directorを務めていた小田が書簡を受け取り、同封以外にも広島の写真が複数あることを知った。(附表2『中国新闻』1985年10月09日付記事)
*2 当時、INAX広島支店では、企業メセナとして営業部長加藤進氏によりINAXスペース(広岛市中区八丁堀)で、企画展示を行っていた。松林俊一氏、菊楽肇氏、写真家の井手三千男氏らは、広岛市の戦後50年史担当であると同時に、INAXスペース展示の企画委員でもあったことからINAXの展示が決まったのであった。
*3 一般的に、当时広く使用されていた硝酸セルロース?酢酸セルロースのフィルムベース、および発色现像方式カラー写真は、劣化を抑えるために低湿(30~50%)、低温(18度以下)の环境下で保存することが望ましいとされている。(マーク?ルーサ、アンドリュー?ロブ改订、国立国会図书馆訳『写真の手入れ、取り扱い、保存』日本図书馆协会、2006年参照。)
*4 この原稿を执笔するため、シェリフ氏は、ジョン?ハーシーの着书『ヒロシマ』に登场する藤井医师や爱宫(ラサール)神父に取材している(「1.写真」にその时撮影したと思われるものあり)。ただ、现在はその部分の原稿は无い。かつてシェリフ氏は、书信にて引っ越しの际に失われたと小田氏に伝えている。
*5 杉田米行编着『続?骋贬蚕カメラマンが撮った戦后ニッポン』(アーカイブス出版、2007年)173页、および沓沢博行「东京都江戸东京博物馆所蔵の占领期カラースライドについて」东京都江戸东京博物馆事业企画课资料係编『东京都江戸东京博物馆资料目録占领期カラースライド』(东京都、2011年)参照。
*6 沖縄県公文书馆ホームページ、および仲本和彦「在米国沖縄関係資料調査収集活動報告Ⅱ:米国国立公文书馆新館所蔵の映像?音声資料編」『沖縄県公文书馆研究紀要』第9号(2007年3月)参照。
*7 広岛大学原爆放射线医科学研究所被ばく资料调査解析部奥别产ページに掲载されている「础贵滨笔(米国陆军病理学研究所)返还资料(第一次)」(丑迟迟辫://丑辞尘别.丑颈谤辞蝉丑颈尘补-耻.补肠.箩辫/办辞丑辞蝉丑补/础贵滨笔.丑迟尘濒)等参照。
*8 仙台市歴史民俗资料馆编『なつかし仙台:いつか见た街?人?暮らし』特别展図録2(仙台市教育委员会、2006年)および仙台市歴史民俗资料馆奥别产ページ
(丑迟迟辫://飞飞飞.肠颈迟测.蝉别苍诲补颈.箩辫/办测辞耻颈办耻/谤别办颈尘颈苍/苍辞迟别/苍补迟蝉耻办补蝉丑颈.丑迟尘濒)
に掲载されている企画展「なつかし仙台2」の绍介记事参照。
*9 前掲『东京都江戸东京博物馆资料目録 占领期カラースライド』。
*10 「50年代の呉のカラー写真贈る」『中国新闻』2012年7月14日。

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