执笔者
石田雅春
1. 受贈および整理の経緯
本史料群は、戦后広岛県の教育行政に携わられた森冈(旧姓藤川)正美氏に関する文书である。森冈正美氏は、広岛大学の前身校である広岛师范学校、広岛高等师范学校、広岛文理科大学のご出身であり、その関係からご子息の森冈晋氏が当馆に史料の寄赠を申し出られたのであった。
さて、森冈晋氏は、自宅の仓库を整理する过程で父亲に関连する文书を取りまとめられ、その上で数度にわたって当馆に持ち込まれた。このため当馆での目録作成にあたっては、原秩序を考虑するのではなく、史料の形态と内容を重视して分类?整理を行った。
すなわち、まず形态に応じて史料を书籍、书翰、アルバム、书籍に分けてこれを大分类とした。このうち书类と书籍については、さらに内容别に分けてこれを小分类とした。この际に书类については、その生成过程が森冈正美氏の仕事と密接に関係するため、履歴に沿って分类を设定することとした。
この结果、次记のような形で分类した。
表 森冈正美関係文书分类一覧
大分类 | 小 分 类 | 点数 |
---|---|---|
Ⅰ 书类 |
1.総记(1)履歴(2)着作 2.広岛市皆実寻常高等小学校 3.広岛高等师范学校 |
233点 |
Ⅱ 书翰 | 33点 | |
Ⅲ アルバム | 7点 | |
Ⅳ 书籍 | 1.沿革史 2.谨呈本 3.恩师?同窓生着作 4.同窓会誌 5.教科书 6.教育関係 7.文化财関係 8.行政関係 9.家関係 |
129点 |
2. 森岡正美氏の履歴と史料群の概要
森冈正美氏の履歴については、3页に掲载した。この履歴については、森冈正美氏の叙勲申请の际に作成された履歴书を底本としている。このため教员时代の履歴は、広岛県教育委员会の人事记録に基づいており详细である。しかし教员を退职した后の履歴については、残念ながら不明な点がある。
さて先述のように、本史料群は森冈正美氏の履歴に沿って分类を行っている。そこで以下、同氏の履歴を踏まえて特徴的な史料をいくつか绍介したい。
森冈正美氏は、明治43年に広岛県双叁郡河内村に生まれた。父は藤川米吉、母はコウラと言い、7人兄弟(男3?女4)の叁男であった。(昭和12年に森冈家へ养子縁组して改姓する。)地元の小学校を卒业后、広岛师范学校に进学した。昭和6年に同校を卒业し、広岛市皆実寻常高等小学校に训导として着任した。その后教员を一时休职して、広岛高等师范学校?広岛文理科大学で学ぶこととなった。森冈正美氏の専攻は教育学で、残された史料からは教育哲学に倾倒していた様子が看取される。
同时期の史料については、写真アルバムと讲义ノートがまとまって残されている。広岛高等师范学校や広岛文理科大学については、原爆で被灾した関係から戦前の史料が乏しい。このためこれらの史料は、両学校における教育活动や生徒?学生の生活実态を知る上で贵重なものである。
また、特笔すべき史料としては、西晋一郎氏が昭和18年の御讲书始の仪において进讲を行ったときの草案が残されていることである。この进讲の记録については玖村敏雄氏の旧蔵史料(山口県立図书馆蔵)にも同内容のものがあるが、玖村敏雄関係文书のものが和文タイプで印刷されているのに対して、森冈文书のものは和纸に墨书で作成されており、より原本に近いものと推定される。
さて昭和22年に広岛文理科大学を卒业した后、森冈正美氏は広岛県教育委员会事务局、広岛県养护学校长、広岛県西城高等学校长、広岛県庄原格致高等学校长を勤めることとなった。このうち文化係长时代(昭和33?35年)と広岛県养护学校长时代(昭和38?40年)については、関连する史料が比较的まとまって残っている。
このうち広岛県养护学校については、森冈氏は初代校长として赴任し障害児教育に热心に取り组んだ。すなわち昭和40年に文部省が発行した养护学校の学习指导要领解説において、森冈氏が分担执笔を行っていることからも、その仕事ぶりの一端がうかがえよう。
その一方で、広岛県教育委员会事务局时代(昭和23?28年)については、ほとんど史料が残っていない。同时期には新学制への切り替えや占领军の勧告にもとづく新制中学?高校の再编が行われるなど、重要な制度の改変が行われており、同时期の史料がほとんど无いことは惜しまれる。
さて昭和45年に森冈正美氏は、広岛県庄原格致高等学校长を最后に退职することとなった。その后は美作短期大学に助教授として再就职するとともに、马洗川流域振兴基本计画研究委员会委员や备北新都圏整备基本计画研究委员会委员など、各种审议会の委员を务めていることが确认できる。こうした森冈氏の仕事を踏まえて、书类の分类として、「8.备北地域振兴関係」、「9.コミュニティ振兴関係」、「10.社会福祉関係」、「11.美作短期大学」を设定した。
以上、本史料群の概要を绍介したが、绍介した文书以外にも戦前?戦后の広岛県の教育に関する贵重な史料が多数含まれている。本史料群の公开によって、今后同方面での研究がさらに进展することを期待したい。
森冈正美履歴
明治43(1910)年生 平成5(1993)年没(享年83歳)
学 歴&苍产蝉辫;
大正11年3月 | 河内小学校寻常科卒业 |
大正13年3月 | 十日市小学校高等科卒业 |
大正15年4月 | 広岛师范学校本科第一部入学 |
昭和6年3月 | 広岛师范学校本科第一部卒业 |
昭和9年4月 | 広岛高等师范学校教育科入学 |
昭和11年3月 | 広岛高等师范学校教育科卒业 |
昭和19年10月 | 広岛文理科大学教育学科入学 |
昭和22年9月 | 広岛文理科大学教育学科卒业 |
职 歴&苍产蝉辫;
昭和6年3月 | 広岛市皆実寻常高等小学校训导(昭和9年3月まで) 広岛県师范学校训导兼任 |
昭和11年3月 | 広岛市広瀬寻常高等小学校训导 |
昭和15年3月 | 広岛県师范学校训导 広岛県师范学校教諭兼任 |
昭和17年6月 | 広岛県立青年学校教员养成所教諭 |
昭和19年4月 | 広岛青年师范学校助教授(制度改编のため、昭和19年9月まで) |
昭和22年12月 | 広岛県立広岛第一高等女学校教諭 |
昭和23年3月 | 広岛県视学委员 |
昭和23年11月 | 広岛県教育委员会事务局専门职员(管理课管理係长) |
昭和24年9月 | 指导课一般教育係 |
昭和26年5月 | 指导主事、広岛県教育研究所员兼任(同年12月より) |
昭和28年5月 | 比婆出张所次长 |
昭和31年8月 | 叁次教育事务所教育第二课长 |
昭和32年5月 | 叁次教育事务所総务调査课调査统计係长 |
昭和33年11月 | 社会教育课文化係长(のち文化财係长に职名変更) |
昭和35年10月 | 叁次教育事务所长 |
昭和38年4月 | 広岛県养护学校长 |
昭和40年4月 | 広岛県西城高等学校长 |
昭和43年4月 | 広岛県庄原格致高等学校长 |
昭和45年4月 | 広岛県庄原格致高等学校长辞職 |
昭和47年4月 | 美作短期大学助教授 |
昭和53年10月 | 美作短期大学教授 |
昭和60年3月 | 美作短期大学教授辞职 |
各种审议会委员
叁次市选挙管理委员(昭和50年委嘱)、马洗川流域振兴基本计画研究委员会委员(昭和52年委嘱)、备北新都圏整备基本计画研究委员会委员(昭和52年委嘱)、叁次市社会福祉协议会评议员(昭和52年委嘱)、叁次市立叁次公民馆运営审议会委员(昭和46年委嘱)、叁次市立叁次児童馆运営审议会委员(昭和46年委嘱)