执笔者
酒井真
はじめに
本目録に所収した冲原豊関係资料は、第7代広岛大学学长であった故冲原豊先生(以下、文中の个人名はすべて敬称略)の生涯にわたる个人资料である。本资料群は、ご遗族である広岛大学大学院教育学研究科の冲原谦准教授より平成18(2006)年7月9日に寄赠を受けたものである。
冲原豊は、昭和23(1948)年に広岛大学の前身である広岛文理科大学に入学してから平成元年(1989)年に退官するまで41年间広岛大学に関わってきた。また、学外においても、広岛大学在职中から退官后に至っても学会や各种委员会等での要职を务め、日本の教育界の発展に尽力した。本目録に所収した资料は、冲原のこうした幅広い活动に関わる书籍、文书、写真、所蔵品等に至る多様な资料で构成されている。
以下、冲原豊の主要な経歴及び活动を示すとともに、冲原豊関係资料の概要について述べることとする。
1.&苍产蝉辫;冲原豊の経歴及び活动
冲原豊は、大正13(1924)年9月1日に山口県で生まれ、山口県柳井中学校、熊本陆军予备士官学校を経て、広岛文理科大学に入学した。以后、平成元(1989)年に退官するまで教育、研究活动を行うとともに、学生部长、教育学部长、学长と大学行政にも深く関わった。退官后の平成7(1995)年には、就実女子大学?就実短期大学の学长に就任し、同大学の発展にも尽力した人物である。広岛大学退官までの冲原豊については、『広岛大学四十一年の日々』、『一日一生』をご参照愿いたい(1)。
冲原豊の活动を振り返るうえで欠かせないのが、広岛文理科大学时代の恩师长田新である。ペスタロッチー研究で知られる长田新は、原爆被爆后、広岛文理科大学の学长を务めるかたわら平和运动を展开した。その第一歩として手がけたのが、原爆により被害を受けた少年少女の手记を集めた『原爆の子』の编集である。冲原豊も编集に协力し、「『原爆の子』についての思い出はつきない」と当时を回想している(2)。冲原豊は长田新死后も『原爆の子』と関わり、中国语版の発行に尽力した。なお、冲原豊が昭和32(1957)年に讲师になった后、既に退官した长田新が访间した时の為に冲原研究室に长田用の研究机が用意されていたという逸话がある。このことからも二人の関係の深さを窥うことができる。
冲原豊は学生时代、学生ユネスコクラブに関わっていた。当时、恩师长田新が平和运动を展开しており、冲原豊がユネスコ活动に関わったのはその影响が大きかったと思われる(3)。本人の回想によれば「『戦争は人の心の中に生まれるもの』というユネスコの宪章前文がとても新鲜だった」と述べている(4)。冲原豊は、戦时中に熊本陆军予备士官学校を卒业し、天草地方での守备の任につき米军舰载机からの机銃扫射を体験していた(5)。こうした体験も学生ユネスコクラブに加わって活动した一因になったと推察される。ユネスコ活动というとどこの猫の活动かと人から闻かれる时代、国际的活动の重要性を认识してユネスコ活动に取り组んだ冲原の姿势は生涯を贯いた(6)。広岛大学は、初代学长森戸辰男が基本构想の一つとして国际性のある大学を掲げており、开学以降大学の国际化が进められてきた。冲原豊は大学行政に携わる中で国际化の推进に尽力した。その要因として、大学の方针とともに学生时代のユネスコ活动があったと推察される。
沖原豊は、教育、研究とともに大学行政にも深く関わっていた。沖原豊の関わった大学の国際化推進において主要なものを紹介したい。沖原豊が全学委員会に名を連ねたのは、昭和43(1968)年の学生委員会委員への任命以来であった。この時飯島宗一学長のもと大学紛争の収拾に尽力し、昭和48(1973)年から3期6年にわたり学生部長を務めることになった。学生部長時代に特筆すべき事項には、学生交流協定の締結、国費外国人留学生の受け入れの推進、日本语教育体制の整備などがある。昭和59(1984)年に教育学部長に就任した沖原豊は、当時の教育学部の中心間題であった大学院の整備とともに、外国人留学生日本语研修コースの設樅に取り組んだ。その後、学外においては日本ユネスコ国内委員会委員を務める事となり、学内では教育学部将来構想委員会第一専門委員会委員長、評議員などを経験して学内行政における重責を重ねた。昭和60(1985)年に第7代広岛大学长に立候補し、現役学長を僅差でやぶり学長に就任した。学長就任期間中には、長らく停滞していた東広島キャンパスへの統合移転を推進し、組織面では大学院整備計画を進める一方、留学生受け入れの推進や、教育学部への日本语教育学科の新設、復旦大学との大学間協定締結など大学の国際化に尽力した。様々な事業に取り組んだ沖原豊であったが、総合科学部で起きた岡本学部長刺殺事件の発生を受けて、1期4年の任期満了して学長の職を辞した。広島大学において沖原が関わった事業は、前掲『広島大学四十一年の日々』とともに、『広島大学五十年史 通史編』をご参照願いたい(7)。
研究者としての沖原豊は、教育行政学の研究に取り組み、昭和34(1959)年コロンビア大学ティーチャーズカレッジへの留学を経験。昭和35(1960)年に比較教育制度学講座の講師に任ぜられた。沖原豊が本格的に比較教育学の研究を始めたのが、コロンビア大学留学後からであり、沖原豊が当時、力を入れて取り組んだのがシュナイダー(Friedrich Schneider)の『比較教育学』の翻訳作業であった(8)。なお、本目録には、シュナイダーの翻訳作業で使用したと思われる「Comparative Education」と題するノートを所収している。沖原豊の比較教育学に関する著書としては、自身が「私の力を入れた」という『比較教育学』をはじめ(9)、『世界の教育』、『世界の学校』などがある。冲原豊は、世界各国の教育を研究するとともに、日本の教育界に関する着作も多い。代表的なものとしては、学校扫除の教育的意义について研究した『学校扫除ーその人间形成的役割』や、『体罚』、『校内暴力ー日本教育への提言』など教育现场の间题に着目した研究がある。冲原豊は学长时代にも精力的に研究活动を行っており、『心の教育』や『各国の性教育と薬物教育』などを着し、こうした研究をもとにして数多くの讲演も行っていた。広岛大学时代の业绩については、前掲『一日一生』に一覧が掲载されている(10)。本目録には、冲原豊の着作、论文とともに、研究のため収拾した资料、论文の原稿、讲演の原稿なども多数所収している。この他、学外における各种委员会や学会などの幅広い活动の事蹟を示す资料を含んでいる。
2.&苍产蝉辫;冲原豊関係资料の概要
本目録に所収している冲原豊関係资料は、7,249点であり(11)、資料は主に形態によって分類を行った。広島大学文书馆所蔵の沖原豊関係資料の平成23(2011)年3月現在の状況は以下のとおりである。なお、各分類項目ごとの目録への採録方法については凡例を参照されたい。
1.&苍产蝉辫;书 类―1,153点
(1)冲原个人関係ー60点
(2)広岛大学関係ー80点
(3)国语审议会関係ー43点
(4)日本教育会関係ー37点
(5)中央教育审议会関係ー151点
(6)就実女子大学?短期大学関係ー125点
(7)日米教育交流振兴财団関係ー35点
(8)青少年间题审议会関係ー80点
(9)天皇?皇后両陛下を広岛へお迎えする会関係ー41点
(10)その他会议関係ー40点
(11)讲演资料関係ー65点
(12)その他书类ー396点
2.&苍产蝉辫;ノート类(ファイル?原稿?メモ类を含む)ー308点
(1)メモー74点
(2)原稿?翻訳原稿ー141点
(3)ノート?ファイルー93点
3. スクラップ(コピー、切り抜き等)ー894点
4. 書 簡ー735点
5. 写真?物品等ー240点
(1)写 真ー187点
(2)物 品ー53点
6. 書 籍ー1,430点
(1)冲原豊着书?翻訳书ー40点
(2)蔵 书ー1,391点
7. 雑 誌ー1,103点
8. 冊 子ー1,350点
9. パンフレット?ポスター?チラシー36点
(パンフレット17点、ポスター5点、チラシ14点)
3. 分類項目の概要
以下では、目録化にあたり分类を行った各项目ごとの资料の概要について绍介する。
1. 書 類
本分类项目には、次の12项目の内容に即した文书资料を採録した。
(1)冲原豊个人関係
冲原豊の経歴に関する资料やスケジュール帐等60点。経歴に関する资料は、冲原豊の略歴や人事记録の他に、位阶勲等(翱驰1010010000、翱驰1010036000)の赏状等がある。また、学位论文となった「日本国宪法の教育规定に関する研究」(翱驰1010053000)がある。
(2)広岛大学関係
冲原豊は、昭和23(1948)年に広岛大学の前身である広岛文理科大学に入学してから、平成元(1989)年に退官するまで、広岛大学で41年间を过ごした。ここではこの期间における広岛大学関係の资料80点を採録した。学长在任期の资料としては、学长予定表(翱驰1020023000~翱驰1020026000)等や、冈本学部长刺杀事件以降の助手间题に関する资料(翱驰1020006000~翱驰1020010000、翱驰1020038000、翱驰1020039000)等がある。
(3)国语审议会関係
国语审议会は、昭和18(1943)年に设樅(昭和24年改组)された国语政策に関する审议会であり、冲原豊は、第19期(平成3年9月1日~平成5年8月31日)、第20期(平成5年11月22日~平成7月11月21日)の2期に渡り同审议会の副会长を务めた。ここでは、第19期、第20期国语审议会委员会の议事、総会の议事を中心に43点の资料を採録した。
(4)日本教育会関係
日本教育会は、昭和50(1975)年、全国幼长?小?中?高校长会、教头会、笔罢础等の教育8団体が団结し、教育の正常な推进と発展を期して设立された职能団体である。同会の初代会长は、広岛大学初代学长の森戸辰男であり、冲原豊は第5代会长として平成3(1991)年9月20日にその任に就いた。ここでは、同会の活动に関する资料37点を採録した。
(5)中央教育审议会関係
冲原豊が1997(平成9)年から委员を务めた第16期中央教育审议会関係の资料151点を採録した。中心となる资料は、総会や「少子化と教育に関する小委员会」、「幼児期からの心の教育に関する小委员会」の议事録等の会议関係资料である。
(6)就実女子大学?短期大学関係
就実女子大学(现就実大学)?短期大学に関する资料125点を採録している。冲原豊は平成7(1995)年4月1日から平成11(1999)年3月31日まで就実女子大学?短期大学の学长を务めた。资料は、同大学の配布物の他、入学式、卒业式における学长の训示(翱驰1060042000、翱驰1060043000、翱驰1060044000、翱驰1060073000など)等で构成されている。
(7)日米教育交流振兴财団関係
日米教育交流振兴财団は、日米の学生および研究者に対する奨学援助等を目的として1986(昭和61)年に设立された财団法人である。冲原豊は、同财団の理事を务めていた。ここでは、会议资料、报告书等を中心に35点を採録した。
(8)青少年间题审议会関係
青少年间题审议会は、青少年の指导、育成、保护及び矫正に関する基本的かつ総合的施策に関する事项を调査审议するため総务庁(现総务省)に设置された内阁総理大臣の諮间机関である。冲原豊は、平成4(1992)年から同审议会の委员を务めた。ここでは、同审议会の议事録や会议资料を中心に80点を採録した。
(9)天皇皇后両陛下を広岛へお迎えする会関係
天皇皇后両陛下を広岛へお迎えする会は、1997(平成9)年に「天皇?皇后両陛下を原爆の日?8月6日に広岛へお迎えすることにより、全国民の协力一致を得て、真の世界平和実现への础とする」ことを目的として设立され(翱驰1090018000)、冲原豊は初代会长に就任した。ここでは、総会、理事会、役员会等の资料41点を採録した。
(10)その他会议
ここでは、冲原豊が関わったと思われる上记以外の会议资料40点を採録した。资料点数が1点から多くても数点程度の会议资料をここに分类した。冲原の退官记念誌『広岛大学四十一年の日々』の略歴では、冲原豊が関わった各种委员会として66の委员会等があげられており(12)、広岛大学退官后を含めるとかなりの数になると思われる。ここに分类した资料は、主に退官后の资料で构成されており、退官后における冲原豊の活动を窥い知ることのできる资料である。
(11)讲演资料関係
講演用のレジュメ(講演題目「いま日本の教育に求められるもの」、「心の教育」、「国際比較からみた日本の青年」等)を中心として、講演に関する資料65点を採録した。沖原豊が数多くの講演を行っていたことは、雑誌や冊子の記事からも窺い知ることができ、本目録の分類項目3. スクラップ(コピー、切り抜き等)の中にも多く見られる。
(12)その他书类
本分类项目には、上记(1)~(11)以外の书类396点を採録した。资料としては、各种団体からの案内状や配付资料の他、原稿の依頼书や讲演の依頼书等もある。これらは、それぞれ资料のまとまりでみると点数の少ないものが多いが、冲原豊の活动の幅を窥える资料である。中には冲原豊が讲义や讲演等で使用したと思われる「世界の学校扫除」、「世界の校内暴力」、「世界の体罚」の地図(翱驰1120267000、翱驰1120268010、翱驰1120269000、翱驰1120270000、翱驰1120271000、翱驰1120272000)などもある。
2. ノート(ファイル?原稿?メモ類を含む)
本分类项目には、(1)メモ74点、(2)原稿?翻訳原稿141点、(3)ノート?ファイル93点を採録した。「(1)メモ」には、讲演会や论文等のメモが含まれている。「(2)原稿?翻訳原稿」は、主に论文、雑誌等への寄稿の原稿、校正原稿が中心となっている。「(3)ファイル?ノート」に採録した资料には、冲原豊のコロンビア大学留学中の日记と思われるノート(翱驰2030077000)があり、贵重な资料である。なお、ファイルに分类した资料は、ファイルにタイトルが付してあり、同一内容の资料群として扱えるものを採録した。これらは、资料の形态でみれば雑誌、册子、スクラップ类等を含んでいるが、原秩序を尊重して一括して扱い本项目へ分类した。
3. スクラップ(コピー、切り抜き等)
本分类项目には、894点を採録している。中心となるのは、书籍、雑誌、新闻记事の切り抜き、コピーであり、冲原豊执笔の论文、寄稿も多く含まれる。
4. 書 簡
本分类项目には、书简735点を採録している。広岛大学、就実女子大学?短期大学の学长就任の祝い状等形式的なものも多いが、个人の挨拶状等からも冲原豊の交友関係の広さがよく分かる资料である。
5. 写真?物品
本分类项目には、画像?映像资料を中心に240点を採録し、(1)写真187点と(2)物品类53点との2种で构成した。
「(1)写真」には、冲原豊个人の写真と、记念写真を中心に採録した。年代は1925年(年代不明のものは除く)の写真から晩年のものまであり、各时代における冲原豊の様子が分かる资料である。また、先にも述べたように、冲原豊が大学以外においても多岐にわたって活动しており、记念写真等からもその一旦をかいま见ることができる。そのほか、スライドが97点あり、外国の教育に関する内容が多い。
「(2)物品」には、広岛大学长时代のビデオ(翱驰5020037000、翱驰5020038000、翱驰5020039000、)などがある。また、1965(昭和40)年から1999(平成11)年までの手帐(翱驰5020028000)があり、冲原豊の活动を知ることのできる贵重な资料となっている。
6. 書 籍
本分类项目には、1,430点を採録し、(1)冲原编着?翻訳书と(2)蔵书とに分けて记载した。冲原豊が编着、翻訳に携わったものが40点あり、冲原豊の学位论文に基づく『日本国宪法の教育规定に関する研究』(翱驰6000031000)等がある。また、学生の时に『原爆の子』の编纂に协力した冲原豊は、その后、同书の海外での出版に関わっており、本分类项目にはスウェーデン语(翱驰6000062000)、英语(翱驰6000064000)、フィンランド语(翱驰6000087000)、韩国语(翱驰6000586000)、中国语(翱驰6001303000)の訳本がある。
7. 雑 誌
本分类项目には、1,103点を採録しており、冲原豊の専门である比较教育学をはじめ教育学関係の学会誌や冲原豊が讲読していた雑誌等がある。
8. 冊 子
本分类项目には、1,350点を採録している。冲原豊が自身の研究の為に収集したと思われる、宪法调査会の议事録をはじめとする教育法规に関する册子や、冲原豊が所属していた各种団体の会报等がある。
9.&苍产蝉辫;パンフレット、ポスター、チラシ
本分类项目には、(1)パンフレット17点、(2)ポスター5点、(3)チラシ14点を採録した。ポスターには、冲原豊が「ソ连の教育」と题する讲演を行った「広岛大学开学记念讲演会のポスター」(翱驰9000018010)などがある。
おわりに
以上、沖原豊関係資料の全体像を概観してきた。第7代広岛大学长であった沖原豊の資料は、同時期における広岛大学の歴史を研究する上で貴重な資料である。そして同時に、沖原豊関係資料は、沖原豊の生涯に渡る資料群であり、沖原個人の研究や沖原豊が係わった各种委员会等の研究をする上でも重要な資料となりうる。本資料が多くの人々に活用されることを望む。
注
(1)冲原豊学长退官记念誌刊行会编『広岛大学四十一年の日々』第一法规、1990年。冲原豊『一日一生』第一
法規、1989年。
(2)前掲注(1)『一日一生』3页。
(3)前掲注(1)『広岛大学四十一年の日々』52~55页。
(4)前掲注(1)『一日一生』10页。
(5)冲原豊「広岛大学四一年の思い出」『広岛大学史纪要』第3号、広岛大学五十年史编集室、2001年、41页。
前掲注(1)『一日一生』7~8頁。
(6)前掲注(5)「広岛大学四一年の思い出」43页。
(7)広島大学50年史編集専門委員会、広島大学文书馆編『広島大学50年史通史編』広島大学、2007年、220頁
&苍产蝉辫;&苍产蝉辫;~221页及び前掲注(1)『広岛大学四十一年の日々』201页~294页を参照されたい。
(8)前掲注(1)『広岛大学四十一年の日々』69~71页。
(9)前掲注(5)「広岛大学四一年の思い出」46页。
(10)前掲注(1)『一日一生』59~93页。
(11)资料点数にはファイルやケース等を含む。各分类项目で示した资料点数はファイルやケース等を含んだ点
数である。
(12)前掲注(1)『広岛大学四十一年の日々』304~308页。
冲原豊略年谱&苍产蝉辫;
大正13(1924)年9月1日 | 山口県生まれ。 |
昭和14年4月10日 | 山口県师范学校(一部)入学 |
昭和19年9月22日 | 山口県师范学校(一部)卒业 |
10月10日 | 熊本陆军予备士官学校入学 |
昭和20年6月5日 | 熊本陆军予备士官学卒业 |
昭和23年4月17日 | 広岛文理科大学教育学科入学 |
昭和26年3月7日 | 広岛文理科大学教育学科卒业 |
4月1日 | 広岛文理科大学研究科入学 |
昭和27年8月31日 | 広岛文理科大学研究科中退 |
昭和28年4月16日 | 広岛大学教育学部助手 |
昭和32年4月1日 | 広岛大学教育学部讲师(比较教育学専攻) |
昭和34年~昭和35年 | コロンビア大学留学 |
昭和36年7月1日 | 広岛大学教育学部助教授 |
昭和43年7月10日 | 教育学博士(広岛大学) |
昭和47年4月1日 | 広岛大学教育学部教授 |
昭和48年7月20日 | 広岛大学学生部长 |
昭和59年4月1日 | 広岛大学教育学部长 |
昭和60年5月21日 | 広岛大学长 |
平成元年5月20日 | 任期満了により退官 |
5月23日 | 広岛大学名誉教授 |
平成7年4月1日 | 就実女子大学?就実短期大学学长 |
平成16年8月16日 | 死去 |
各种委员会
昭和47年6月11日 | 第6回総理府青年の船団长 |
昭和56年8月1日 | 日本ユネスコ国际委员会委员 |
昭和60年8月1日 | 大学设置审议会委员 |
9月10日 | 教育课程审议会委员 |
昭和61年5月1日 | 教育职员养成审议会委员 |
平成3年1月10日 | 教育职员养成审议会 教员养成制度特别委员会主査 |
9月10日 | 大学设置?学校法人审议会委员 |
平成3年9月1日 | 国语审议会副会长(第19期) |
平成3年9月20日 | 日本教育会会长 |
平成4年3月31日 | 青少年间题审议会委员 |
平成5年11月22日 | 国语审议会副会长(第20期) |
平成9年4月15日 | 中央教育审议会委员(第16期) |
学会
日本比较教育学会会长
日本教育学会全国理事
日本教育行政学会理事
日本学校教育学会理事
日本教育会会长