楽しく生き、迷惑かけずに死ぬ

豊国工业株式会社 鉄构本部 製造部 参事
河野 安隆 さん
広岛大学工学部 精密工学科
1975年度卒业
山口県立小野田高校卒业
私、広岛大学には2浪で入ったんです。
别に「何が何でも広岛大学」って决めてた訳じゃなく、当时の受験科目がピッタンコだったんです。そんなこんなで同じ受験科目で受けた东京理科大の机械工学科にも合格したんですが、亲のツルの一声「授业料が安いから」、で広大。
でも、2年间の禁欲生活もとい受験勉强がたたってか、1年生の时は勉强もなんもヤル気が起こらず、ボ~っとして过ごしてしまったんです。もったいない过ごし方をしてしまいました。根っからの「小心者」の上に「引っ込み思案」も加わって、「新入生歓迎ツアー」にも一応参加しましたが、レクレーションで盛り上がっている轮の中にも入れず、その后も『现実逃避型下宿直行帰宅组的学生』だったんです。
いまでこそ、『広岛大学工学同窓会 本部理事』、『同 东広岛支部支部长』、『広岛県呉市バドミントン协会 理事』、『江田岛カヌークラブ 特别会员』、『江の川カヌー公园さくぎ 东広岛支部长(某イントラの命名)』、『太极拳东広岛运动公园教室 干事』、『顿51の会(会社の同期の会) 干事长』、『创立60周年委员会(=2017年) 编集长』などの肩书を持ってあっちゃこっちゃに颜を出してるんですが、いつの何がきっかけで人间が変わったんでしょう?
そう、それは大学2年の春。友达の柿原春夫(水畜产51)が立ち上げた文サ连のクラブ「いきもの会」に参画し、自然の不思议といきものの素晴らしさに魅了され、京大霊长类研究所の分室?幸岛に行って、芋を海水に浸けて食べるニホンザルを観察したり、とにかくクラブとバイトとコンパの日々が始まった时からなんです。そのうえ『神田川』(かぐや姫)の世界感のような恋にうつつをぬかしたせいもあって単位も不足気味だったんですが、ゼミの片岛叁朗先生(机23、鋳物学会の重镇)のおかげで卒业でき、さらには先生の绍介で今の会社に就职できたんです。



入社してからは、『我に七难八苦与えたまえ』(山中鹿之助)じゃないですが、次からつぎへと课题をもらい、生产企画→生产管理→生产技术→开発部→生产设计→生产技术笔闯→创立30周年记念式典企画?运営→社内运动会の企画?运営→立驻设备设计部→大阪に立驻営业として転勤→阪神大震灾被灾→本社にカンバック→原価管理部门→経営企画室→滨厂翱9001认証取得笔闯→コスト低减笔闯→新规事业开拓部→製造部→社内报编集委员→记念誌编集长とありとあらゆることを経験させてもらっています。考えてみると、『无』から『形にして行くこと』が好きだったんです。入社から约20年间、つねに私の上司であり続けた方の「絵が描けなきゃダメだ」という言叶が、いま勤続40年の身になってズシリと来てるんです。
话は変わって、せっかく原爆被灾の街?広岛にいるんで、2015年にアパグループの悬赏论文『第8回 真の近现代史観』に投稿したんですが、落选。最优秀赏はあのケント?ギルバートさん作『日本人の国民性が外交?国防に及ぼす悪影响』、はっきりとした意思を伝えない日本人を叱咤激励してくれているんです、ぜひ読んでみてください。そして戦争と平和を考え、広い视野を养ってください。それと『原爆资料馆』には絶対すぐに行くんだよ。