名前: 大西 博巳 (おおにし ひろむ)
出身: ブラジル
現職: ブラジル広島県人会長(広島大学ブラジル校友会長)
取材日: 2014年8月27日

略歴:
1972年 広島県費留学生として広島大学政経学部に留学
1973年 海外技術者研修協会(AOTS)研修生として広島市内の企業で研修
1974年 ブラジルに帰国後、現地日系企業に就職
はじめに
今回は広島県費留学生としてブラジルから広島大学に留学した大西 博巳氏(ブラジル広島県人会長)に留学时代の思い出を伺いました。
大西会长は日系二世としてサンパウロ州の内陆部で生まれて、戦后の日系移民社会の混乱の中、家族でサンパウロ市内に移り住みました。その后、母の故郷、広岛に留学。帰国后は留学で身につけた知识を活かして日系公司に就职しました。退职后はブラジル広岛県人会长として、母県である広岛県との交流の推进に尽力されています。
ブラジル日系二世として日本に留学した大西氏にとって日本や広岛はどのように映り、その后の人生にどのような影响を与えたのでしょうか?
日系二世としてブラジルで生まれて
- まず日本留学までの简単な略歴や日系移民のバックグラウンドについてお闻かせ下さい。
日系二世です。亲父が15歳の时に、おふくろが16歳の时にブラジルに来ているのです。2人はブラジルで见合い结婚をしました。大変な奥地でしたが。亲父は北海道、おふくろは広岛の五日市出身です。
- サンパウロ州にある开拓地ですか?
サンパウロ市から约550キロ离れたトゥッパンという町です。私は1944年末に生まれました。そして1945年に戦争が终わりましたよね。1945年から48年にかけて、私たちが住んでいた地域の日本人社会はものすごく问题がありました。いわゆる「胜ち组」と「负け组」の抗争ですね(※)。
(※) 勝ち組と負け組の抗争。第二次世界大戦後、ブラジル日系移民社会において、「日本は戦争に勝った」と信じていた人々のことを「勝ち組」といい、逆に「日本 は負けた」と考えた人たちは「負け組」と呼ばれた。戦前の教育を受けていた日本移民にとって、「日本が戦争に負けた」と聞いても信じることはできず、一般の人の多数、特に奥地ではその大多数が日本の勝利を信じ、主に勝ち組が負け組を襲撃する事件が発生して多数の死傷者がでた。
- どのような抗争だったのですか?
私たちの家族は商売をやっていました。農業は兄貴に任せて、親父は町に出てね。田舎町の商売というのはこうです。農業をやっている人たちは町に買い物に来ると、物を預けたり、郵便を取りに私たちの店に来ていました。だから勝ち組も負け組も相手にしないといけません。商売ですからね。そこで、どちらを 贔屓するかといえば、勝ち組を贔屓しないと後が怖いと。というのは、その地域では勝ち組と負け組の抗争で15~16人の死亡者が出たのです。勝ち組が負け組をね。
その抗争についてブラジルのある先生が调査した本があるのですが、その本にはうちの亲父が写した写真が载っています。その抗争のために警察とかそういうところが、调査、処理をしなくてはならなくなって亲父が何回も引っ张られて、长い时は二カ月くらい逮捕されてね。
- なぜ逮捕されたのですか?
当時は日本语を集団で話してはいけなかったんです。日本人が3人くらい集まっていると、警察が来て、日本语をしゃべっただろうということで引っ張っていくわけです。違法だから。日本の本も持ってはいけない。サンパウロはもっとひどかったですね。サントスもね(※)。
(※)当時ブラジルではヴァルガス政権下で国粋主義政策が取られ、日本语新聞の廃刊、日本语学校閉鎖、公の場での日本语使用の禁止などが実施された。日系移民の大多数はポルトガル語ができないことに加え、戦時中に敵国人として扱われたこともあって、特に奥地では終戦後の情報を全く得ることができない状態にあった。
サンパウロ市へ移り住む
そんな問題がいろいろあって家族でサンパウロ市に出てきました。市内にあるモッカ(※)という日本人のいない小さな町です。学校では日系人は僕だけ でした。1952年頃かな。その頃、日本语は全然使わなかったです。家に帰った時だけですね。その後、ずっとサンパウロ市内で生活していました。少しの間、日本语学校に行ったのですが、あまり時間もなくて、ブラジルの学校ばかりだから日本语は使わないし、勉強しなかったのです。
(※)モッカ(惭辞辞肠补)。サンパウロ市内にあるイタリア系移民が多く居住する地区。
- その后はどうしたのですか?
ちょうど18歳の时に亲父が事故で亡くなって、兄弟6人だったのですが、弟たちの面倒を见なくてはいけなくなりました。それで1年くらい勉强をやめていたのですが、友达や仲间が勉强を続けようというので法科大学に行きました。それまでは会计を勉强していたのですがね。
というのは昔ね、サンパウロ州の小学校では試験があったんですよ。そして私立の学校に進学する人は試験のレベルはそんなに高くなかったけど親が授業料を払 わなければならなかった。そして、もう少し勉強ができる人は無償の州立学校で勉強していたのです。僕も州立学校に入りました。でも途中でどうしても会計が 習いたくなりました。会計が勉強できる学校は私立しかなかったので、親父は授業料を払いたくなくて反対しました。それで然るべきところに補助の申請をして勉強をしました。でも、ちょうど親父が亡くなったので商売を続けるしかなかったのです。
- どのような商売だったのですか。
眼镜と写真屋です。ブラジルの写真はとても遅れていました。カラープリントなんて店に出すと3-4日かかっていた。当时、サンパウロ市内にラボ(现像所)が2轩しかなかった。田舎からそこまで持って行っていたのです。
そういうことで、僕もまた勉強を再開して法科大学の3年生の時に研修をすることになりました。ブラジルの法科大学は5年制なのですが、本だけで勉強するの ではなく実務研修として仕事をしました。当時、ブラジル広島県人会長だった村上智(さとし)という弁護士がいました。この人は広島生まれでブラジルの法科大学を卒業してコチア産業組合(※)の顧問弁護士でもありました。僕は村上氏の弁護士事務所で半日ですが仕事をしていたのです。
(※)コチア产业组合。1927年に创立したブラジルの日系人による农业协同组织。南米最大の农业协同组合として発展したが、1994年に多くの负债をかかえて解散した。
ブラジル広岛県人会の活动に携わる
その時、ブラジル広島県人会(※)で新しい会館を作ろうということになりました。サンパウロでは、各県人会の中で、広島県の会館が一番早くできまし た。会館を作るために県人会の定款を作って登記しました。そうしないと日本からの協力金が得られなかったからです。その定款を作るお手伝いをしました。それから県人会のことも勉強して、その活動をお手伝いするようになりました。
(※)ブラジル広岛県人会。终戦后、原爆の惨状を知った広岛県人らが1950年に「原爆孤児救済会」を结成して募金活动を展开。1955年に救済运动のメンバーが中心となり「ブラジル芸备协会」が発足し、1959年に现在の名前に改称した。
その時、広島県への留学制度を紹介されました。まだ卒業まで2、3年あるから勉強するようにと言われて日本语を勉強し始めました。夜ですけどね。その時、22、23歳の頃でした。
- それまでは日本语はどうでしたか?
それまで日本语はできませんでした。それで日本语の先生が、戦前に日本で使っていた教科書を、12巻(まき)まであったのかな、それを使って勉強しました。2年ほどかけて10巻(まき)までやりました。漢字が 300くらいできたのかな?とても厳しい先生でした。会話は先生がブラジル人に教えるシステムを考えて、生徒が4人から5人まででした。あまり勉強しない 人は来なくてもいいと言われました。

1971年に竣工した初代の広岛県人会馆。ブラジル広岛県人会の会报『芸备』の1972年12月30日号の表纸を饰る。

2003年に竣工した二代目の広岛県人会馆(広岛文化センター)。左写真は、センター竣工及び県民ブラジル移住95周年记念誌の表纸。敷地面积1,440平米で地上5阶、地下1阶。讲堂、会议室、原爆パネルコーナー、宿泊施设、体育馆などがある。2009年には同センター内に「広岛大学ブラジルセンター」が设置された。
県费留学生の选考
僕が県费留学の试験を受けた时には受験者が15、16人いました。试験は広岛県人の子弟が対象です(※)。僕は2番になり、1番の方と一绪に2名が広岛大学へ留学することになりました。
(※)広岛県费留学制度。1962年から始まり、中南米の日系社会の広岛県人の子弟を対象とした。留学期间は1年。财政难により2008年度に廃止。ブラジルからは広岛大学をはじめとする県内大学に57名が留学した。
- どのような試験だったのですか?
読解と作文です。
- いつごろ試験があったのですか?
1971年の10月に试験がありました。というのも3月には出発なので、それまでに谁かを决めておかなければなりません。
- 現在、広島県の県費留学制度はなくなりましたが他県はどうですか?
今はまだ10県くらいやっています。でも留学ではなく研修ですね。大体8ヶ月くらい。もっと短いところがあったかもしれません。
来日までの道のり
外国に行くのはその时が初めてでした。飞行机で日本まで36时间くらいかかったのかな。プロペラ机だったので。サンパウロからペルーのリマ、ロサンジェルス、ホノルルと乗り継いで3月29日に羽田空港に到着しました。
- 乗り継ぎが3-4回あったんですね。
确かホノルルで一泊しました。东京から広岛へは夜行列车で11时间くらいかかったのかな。寝台车でした。
- 初めて羽田空港に到着された時の印象は?
これからこの国で生活できるのかなと思いました。これまでは家族と一绪で、1人で生活したことがなかったので。
- サンパウロを出発する時に見送りはありましたか?
あの時は各県の県費留学生がほとんど全員で集まって行きました。何人くらいだったかな?出発に向けて文協(※)で事前準備があって、説明会もあったし、日本语ができない人には簡単なレッスンもありました。県費留学経験者のグループがあって彼らが面倒を見てくれました。
彼らの多くは当時、船で日本まで行っていました。そういう話を聞いて船の方がいいねと言う人もいましたけどね(笑)。船だとアフリカ周りで約50日、パナ マ運河を通ると約40日。そういう説明がありました。あの頃は「あるぜんちな丸」、「ぶらじる丸」、「さくら丸」などがありました。船の半分は貨物で、半分は旅客です。約2カ月かけてね。それに比べると飛行機は早いですね。機内では、アンデス山脈上空で飛行機が揺れて食事が全部飛んで行ったこともありまし た(笑)。
(※) 文協。ブラジル日本文化福祉協会の略称。在ブラジル日系人の代表機関であり,また,地方の日系人会や各文化団体を結束する中央日本人会的存在でもある。日系人の生活,文化の向上のため,啓発運動のほか,美術,生け花,音楽等の文化事業,日系子弟の奨学?育英事業,図書館の運営等を行っている。サンパウロ日 伯援護協会(略して援協)、ブラジル都道府県人会連合会(略して県連)とともに日系三団体といわれている。
母の故郷、広岛へ
东京に到着してみんなとは别れました。広岛県の方が出迎えに来ていたので一绪に夜行列车に乗って広岛に向かいました。
- 当時の記録によると3月31日に広島に到着して4月1日には雪が降ったとありますが?
僕らはこれまで雪を见たことがなかったのですが、寮の人が今年はよく降ったと言っていました。その时の雪はわずかで広岛市の街中にでるとなかったんですがね。
- 広島に到着して県庁に挨拶に行かれたのですか?
ペルーからの県费留学生と一绪にご挨拶に行きました。知事にもお会いできてびっくりしましたね。それからますます一生悬命やる気になりました。

留学生だより -見て聞いて認識も新た-
今年(一九七二)私たちは「県费留学生として、大西博巳君とMさんとの二人を故郷広岛県に送りだしました。私たちの期待に応えて、両君とも一生悬命に勉学に励んでいます。
出発のときには、二世の常としてそんなに上手には使えなかった日本语も、次の手紙に見るように、日本滞在の日が多く経つにつれて、その進歩の度合が大きくなっています。
ブラジルでは味わえない日本の生活、そして学生としての雰囲気、それを自から体験している赤裸らな感想が、二人の送って来た手纸の中に跃动しています。
私たちも日本に留学した学生の気持ちになって、若い前途ある大西君とMさんの便りを味読しましょう―
※原文ママ、Mさんはイニシャルで表示。
(左)前出の会报『芸备』には広岛で留学中の大西氏からの手纸が「留学生だより」として掲载されている。
(右)该当ページの见出し记事を抜粋。
広岛大学での勉学
- 広島大学での手続きは?
大学での手続きは全部终わっていました。大学では、ブラジルから来たんだからサッカー部に入ってくれないかと頼まれてね(笑)。それでサッカー部に申し込みました。あまり时间がなくて少ししかできなかったけどね(※)。
(※) 大西氏によると、日系二世達は、若い頃、親に反対されながらもブラジルでサッカーをしていたとのこと。日系人がプレーをしているとパステレーロ(餃子)と か、チンドレーロ(洗濯屋)などと野次を飛ばされたという。当時、ブラジルで活躍した日系人プレーヤーの中には現在、サッカー解説で有名なセルジオ越後氏がプレーをしていたとのこと。
- 指導教員は誰でしたか?
最初は金沢先生でした。僕はよく金沢先生の研究室に行って説明を闻いていたのだけど、途中で先生が病気になりました。どうしようかといううちに、県にお愿いして警察関係や刑务所などを何回か访问して话を闻かせていただきました。いい勉强になりました。
- どのような授業を取られたのですか?
金沢先生と相談して決めました。主に専門の授業ですね。そこで問題になったのが、専門書や資料などが全部は読めないんですね。だから誰 かお願いできる人を待って、依頼をして読んで説明してもらってましたね。そのあと、スペイン語を習いたいという高校の先生がいて、その人にお願いしまし た。時間はあまり取れないけどと言われましたが、よく本を読んで詳しく説明してもらいました。僕からは逆にポルトガル語を教えてあげました。
- 留学生チューター制度による学生の補助はなかったのですか?
当时はなかったですね。
- 週に何時間くらい授業を受けていましたか?
毎日授业を受けていましたよ。法律の授业を中心に。ない时には、それ以外の授业を闻いていましたけど。主に経済、会计関係ですね。
日本语の勉強
- 日本语の読み書きはいかがでしたか?
読むのは难しかったですね。闻くのは何とかなったけど。でも当时は半分くらいしかわからなかったね。特に専门用语は难しかったね。
- 大学では日本语を教える授業はなかったのですか?
なかったですね。でも、結局、物事を知りたい、分かりたいと思ったら自分でやらないと。授業では90人近くいるわけでしょう。だから先生はひとりひ とりに細かくは教えることはできない。授業の後で、先生に時間を空けてもらって、10分か15分くらいでしたけど、教えてもらったことはありました。
学生生活について
- 休みの日はどのように過ごされましたか?
休みには主にブラジル人留学生が集まって、京都に行ったり、冲縄に行ったりしましたね。日本にはブラジル人留学生がたくさん来てましたので。爱媛に行った留学生は月に2回くらい広岛に来ていましたよ。冈山や鸟取からもよく広岛に来ていました。
また、他県の県费留学生で、その県には工学部がないからということで広大に来てましたね。同じ寮に住んで。ブラジル人が2人、ペルー人が2人いました(※)。
(※)1972年当时、広岛大学の外国人留学生数は39人。台湾からの留学生20名を笔头に、ブラジル、韩国(各4人)、ペルー、インドネシア、スリランカ(各2人)と続いていた。
- 日系人以外の留学生との交流は?
主に南米の留学生とは交流がありましたね。アルゼンチンの人がよく来ていましたよ。それからペルー人もいました。僕も彼らと话していたら、ポルトガル语が通じないのでスペイン语を毎日话すようになってスペイン语が上手になりました(笑)。
- 日本人の友達はいかがでしたか?
日本人の友達とは日本语で話していました。この間、一人ブラジルに来ていたんですよ。いつか広島の『中国新聞』に載っていて県に連絡先を聞いたそうです。来月サンパウロに行きますからって。
- 当時、友達とはどのようなことをして過ごしていましたか?
そういう時間はあまりなかったのですが、私が住んでいた寮には外国人だけじゃなくて広大で勉強していた日本人もいました。彼らとはたまにトランプを しました。ブラジルではトランプのいろいろなゲームがあって、よくやってるんですよね。日本では麻雀ですが。トランプを教えたら韓国やインドの人たちが好 きになってね、やろうって言うんですよ。今日はちょっと時間がないよって言うと「えーやろうよ」って言うんです(笑)。
- 週末はどのように過ごされましたか?
やはり勉强していましたね。日曜日はともかく土曜日はね。宿题もあったし、自分でも少し不安なところがありましたので。
日本とブラジルの文化や习惯の违いで印象に残っていることは?
ひとつは自動販売機。どこにでもあるでしょう?誰か物をとらな いかなって思って心配になる(笑)。そういうのは印象に残ってますね。日本ってすごいなってね。それはやっぱり教育かなと。物事は、4歳から12歳までに 教え込まないと駄目なんだと感じましたね。ブラジルでもそういう教育をやりたいなと。
もうひとつは、これは留学の後ですけど、ブラジルの政府関係者と日本に行って、経団連の方に会いました。その人がタバコを好きな人で、あの頃はどこでも 吸ってよかったんですよね。今は吸うところが決まっているけどね。そのブラジル人が、日本人は吸っているタバコを手で隠すって言うんです。日本の文化は非 常にいいな、違うなと思いました。
- 他人を気遣う文化ですよね。失敗談などは?
今でも覚えているのが、広島に来て二日目かな?駅前のレストランに行ってみると、あの頃はメニューが日本语しかないのです。読んでもわからないし値段で選 びました。女の子が「これですか?」って言うから「はい」って言って。それで持ってきたのが、ご飯がお茶碗で盛ってあって、旗があって、横に笛があって。 お子様ランチですね(笑)。頼んじゃったから仕方ないから、ぱっと食べてね(笑)。それからは必ず何番って言うようになりましたよ。
広岛アジア文化会馆(広岛础叠碍)での生活
- 広島でのお住まいは?
留学中は広岛アジア文化会馆(広岛础叠碍)があったので、私たちは楽でしたよ。他県の留学生はどこかに部屋を借りたり家庭に入ったりといろいろとあったようです。
でも最初は大学へ通学するのにどのバスに乗ったらいいかが分からなかった。日本ではワンマンバスと书いてあるでしょう。そのワンマンバスの意味が分からなかった。どこに行くのかなって。后で意味が分かりましたが(笑)。最终的には市内电车で通うようにしました。
- 広島アジア文化会館は当時どこにあったのですか?
広岛駅北の二叶山(ふたばやま)の中腹にありました。行きは下りだからいいんですが帰りがつらかった。すごい坂ですから。タクシーも嫌がる。特に夏は厳しかった(笑)。
- どのような宿舎だったのですか?
外国人留学生のための宿舎でした。讃井光子先生が、主にアジアの国の人达のためにお手伝いをしたいという気持ちから各方面に働きかけて、东京にあるアジア文化会馆(础叠碍)の広岛支部として会馆が建てられました。讃井先生は、その広岛础叠碍の初代馆长になりました。
(※) 広島アジア文化会館(広島ABK)。初代館長の讃井光子氏が、広島大学の教授だった夫の鉄男氏の意志を継ぎ地元財界などに働きかけて、アジア学生文化協会 (東京)の広島支部として、1969年に鉄筋4階建ての会館が開設。その後32年に渡り留学生に宿舎を提供してきたが老朽化等により2001年3月に閉館 し、同じ年に開設された広島市留学生会館(広島市南区)に留学生支援のバトンが引き継がれた。
- 会館での生活は?
寮に入ると自分で掃除、洗濯でしょう?初めは慣れなかっ たですね。下着はシャワーの時に踏めば綺麗になるとか、みんなに教えてもらいました(笑)。若い時に自分でやるということは、今考えると非常によかったで す。やはり半年くらい経つと慣れてね、時間があれば早めに帰って寮の手伝いをしていました。食事の準備とか。
みんなはテレビを見て知らん顔をしてるでしょう?僕は親父からいつも、あれしろこれしろって言われていたからね。それで嫌な顔をすると「役に立てばいいん だ」って言われてました。食堂で食事の準備している人は大変なんですよね。人数も少なかったし。大変そうだなと思って手伝ったら、仲良くなってね。いろい ろと教えてくれました。何でも聞けば教えてくれる。そういう点では、僕は良かったと思います。
公司研修で引き続き広岛に
- 広島大学での留学後はどうされたのですか?
留学中にたくさん写真を撮っていたら、スピード写真だとフィルムを持っていけば1时间で现像してくれる。僕も写真には详しかったのでブラジルでこういうことをすればいいんじゃないのかなと思いました。ブラジルでは现像に3、4日かかっていたので。
そこで広岛大学に留学している时に、宇品にある贵社に相谈に行ったのです。すると、研修生としてここで研修する気はないかと言われました。というのも、贵社もこれからブラジルにラボ(现像所)を作るので研修生として引き受けるよと。どのようにしたらいいかと闻いたら、海外技术者研修协会(础翱罢厂)があるから、寻ねてみたらと言われた。东京の础翱罢厂からは日本の公司が受け入れてくれるのであれば研修できますよと言われました(※)。
(※)(财)海外技术者研修协会(础翱罢厂)。海外の产业技术研修者の受け入れ?研修等を行う组织として1959年に设立。2012年に海外贸易开発协会(闯翱顿颁)と合併し、海外产业人材育成协会(贬滨顿础)となった。
- それで、広島大学留学中にAOTSの研修の申し込みをされたのですね。
研修の申請は受入企業からではなく研修希望者が個人として申請することになっていました。それで、県に相談に行きました。本来であれば1年の留学を 終えてブラジルに戻らなければいけないと言われました。しかし、研修でもう少し勉強したいのなら、自分から県人会や皆さんの了承を取りなさいと。それから会長に手紙を書いて了承してもらいました。
- どのような研修だったのですか?
研修生としてラボに1年いました。そしたら、ラボもね、给料を払おうとした。そりゃだめだと言ったんだけど、手当として少しいただいて大変助かりました。ラボの所长が言うには、通常社员を雇ったら、彼らの仕事では1年は使い物にならないと。でも、君は70%は出来ているので、それはありがたいと。手当は、必要な时に游びに行ったり食べたりすればいいじゃないかと言われてね。
帰国する時に、機械をブラジルに欲しいんですけどと言ったら、やめたほうがいいとおっしゃるんです。東京のF社の副社長が。自分たちがブラジルでラボを作る時に調査をしましたと。そしたら、ブラジルで1年間のフィルムの使用量は、日本の週末に使うくらいの量だった。マーケットとして小さかった。できればうちのラボに来ていただきたいと。でも、そのラボが遠いのです。行きにくいのです。F社がサンパウロにラボを作ったのですが、僕が帰国する時にちょうどオー プンしたのです。僕がこういう研修をしていたのでブラジルのF社からAOTSを通して2名のブラジル人研修生を派遣してきました。
- AOTS研修中も引き続き広島ABKに住んでいたのですか?
そうです。
ブラジルに帰国
- 帰国後はどうされたのですか?
ブラジルに帰国して警察官採用試験を受けました。ちょうど僕が申し込んだのが帰国してすぐの1974年ですね。そして試験が1975年にありまし た。ところが試験には呼んでくれない。というのも申し込んだ後に法律が改正されて警察関係は身長制限が167cm以上となりました。仲間は裁判をして、ちゃんと仕事した人もいるけどね。
- それでどうされたのですか?
実は、その顷、既にブラジルに进出していた日本公司の惭社で働いていました。というのもその时、惭社から40数人の日本人社员がブラジルに来ることになっていました。だから僕が広岛大学に留学中に、大学の授业の后、ポルトガル语を教えてくれないかと言われて、大学から直接、大竹市へ行って、ポルトガル语を教えたんです。大竹にブラジルに派遣される人が集まっていたので。
ポルトガル语の普通の会话や话し言叶を半年间教えました。僕がブラジルに帰国した时には、皆さんから仕事に来いよと言われてブラジルの惭社で働きました。26年间です。そこでいいポストをいただきました。最初は役员补佐でした。
- なぜブラジルに進出したのでしょうか?
当时、惭社がブラジルに広大な土地を购入して5つ工场を作る计画だったのです。1974年に开始して。サンパウロから约70办尘离れているかな。
サンパウロで日系公司の社长补佐として働く
- どのような仕事でしたか?
日本公司とブラジル公司の両方の経営や人事のやり方が分かっていたので、役员が日本からいらっしゃると、その人たちの补佐をしました。サンパウロ市内に惭社のオフィスがありましたので。
そのうち社长补佐までやれと言われた。主に総务関係を全て担当していました。だから派遣者や驻在员の世话もしていました。また、皆さんが会社の中でこのように変えたいとか、いいとか悪いとかの相谈もありましたね。ブラジルの法律もありますから。そういう仕事です。
帰国后そういう会社に勤めたので、商工会议所とかいろいろ出入りしましたけど。社长はだいたい4年くらいしかいないのです。代わりますからね。
- 広島大学活での留学の成果がかせた?
そうですね。最初の社长が帰国する时に空港で僕に対して、自分は本当に幸せだと、自分は运がいいとおっしゃるのです。君みたいな人がいるから、日本のことも分かる、ブラジルのことも分かる、自分は安心して仕事が出来たと。その时に思ったのは、留学は自分にとってもよかったけど、こういう会社にも役に立てたんだなと感じました。
- F社には就職しなかった?
惭社からの仕事の诱いもあり、そのオフィスが中心街にあったので。あと贵社は技术関係だったけど、自分が大学で勉强した人事労务の知识を活かしたかった。そういう意味では、広岛大学での留学は良かった。前の社长がおっしゃったように、人の役に立てた。そういう制度はいいなと思いました。
- いつまで勤められたのですか?
26年间いたので1996年まで働いていました。その时にエアコンの调査をしましてね。ブラジルもこれからエアコンのマーケットが伸びるだろうと。それを引き受ける人がいないので、惭社の代理店としてやってくれないかと言われて始めたのです。
広岛での留学生活を振り返っていかがですか?
日本では良いこと、悪いこと、失败したこと、いろいろとあったけど、一番役に立ったのは日本の法律を勉强したことですね。日本公司がブラジルに进出する时には、両方の法律が分かっていると非常に役に立ちます。日本の労働法ではこういうことをしてもいい、でもブラジルではいけないと。日本のやり方とブラジルのやり方が分かって、僕はものすごく得をしました。
この前あるニュースで见ましたが、「国境なき科学」计画(※)でブラジル人が海外にたくさん派遣されているけど、勉强していない。游んでいる。せっかく外国に行くなら、できることは全部见たり勉强しないといけない。それが自分の得になるというのを感じていないんですね。その后、留学に行く人たちに対して、僕はよく言ったんですが、见ることはほとんど见てねと。得しますよと。
(※) 「国境なき科学」計画。ブラジル政府による留学生や研究者の派遣プログラム。ブラジル国内の大学の国際化および、ブラジルの大学生?研究者の学術交流を目的として開始した計画。この計画により2015年までに約10万人のブラジル人奨学生を海外へ派遣する予定。対象分野は主に理工学?医学?農学分野など。
県费留学制度はどのような意义があったと思いますか?
県費留学制度については双方で課題があると思います。僕らも送ろうとしてたくさんの若者に日本语を勉強しなさい、留学制度があるから、行って得するよと言うのですが、やはり日本语を勉強しない。ひとつには暇がない。サンパウロ市内に日本语学校があっても、週に2、3回で1時間位でしょう?やはり毎日やらないと、日本に行って物事が分からないと意味がないんですよ。今は英語でもいいと言っているけど、できれば日本语ができて、本を読んだり、ニュースを聞いたりできた方がいい。留学の意味が深いと思うんですよね。
日本も今は経済的に大変でしょう。労働人口も減ってきてるし。多くの企業がアジアに進出していますが、ブラジルにも出てくるんじゃないかと思います。そうすると単に日本语を話すだけでなく日本を経験した人がいると助かるんじゃないかと思います。出稼ぎもありますけどね。出稼ぎも確かに仕事ですが、経営や総務関係となると分からないでしょう。そういう人も必要じゃないかと。例えばブラジルでは何でも裁判に持ち込むことが多いのですが、そういうことがわかる人がいると進出企業も助かるんだと思うんですよね。
そのためにはやはり留学制度が必要だと思います。闯滨颁础(国际协力机构)(※)の研修制度もありますけど県にも顽张ってもらいたい。また、3カ月程度の派遣では駄目です。日本の生活に惯れるためにも最低1年は必要です。日本に行く人に言うのですが、1年はすぐに経つので、あなたが后で得をするためには多くのことを学ぶように一生悬命自分でやらないと、待っていては駄目だよと。そうでないと游びになっちゃいます。もったいないですよと。确かに制度は必要だけど送る侧もちゃんとやらないと。
日本侧でも派遣者に対して厳しく言っていただければ、本人にもいいし、社会にもいいんじゃないかなと。日本からブラジルに来る人も、ブラジルのことをよく见てもらいたい。どこまで役に立つか分からないけど日本侧にとってもいいことだと思いますね。
(※)闯滨颁础(国际协力机构)。戦后、国策として进めた海外移住事业を実施するために设立された海外移住事业団の流れをくむ独立行政法人。现在では、主に开発途上国への协力事业を実施しているが、海外移住者や日系人への支援事业も行っている。
あとがき
大西会长は留学中に日本を経験し、知识を身につけて、日本とブラジルの両国のことが分かる人材として活跃されました。広岛大学での留学は自分のためだけでなく両国の相互理解のためにも大いに役に立ったという大西会长の思いが大変よく伝わってきました。
近年、両国の交流は益々活発になってきています。一方でブラジルには世界最大の日系人コミュニティがありますが、最近では日本语をあまり話すことができない世代となり、今後の新たな交流の在り方が求められています。そういった意味で今回の大西会長のお話は大変示唆に富んだものでした。
取材者:平野 裕次