
名 前: Mochammad Sholichin
出 身: インドネシア
現 職: ダルマプルサダ大学副学長
取材日: 2016年11月29日
略歴:
1970年 インドネシア大学に入学
1974年 広島大学で開催された国際学生セミナーに参加
(日本国际教育协会(础滨贰闯)の「大学国际交流セミナー」事业として)
1975年 日本航空(JAL)奨学金により上智大学のサマースクールに参加
1976年 文部省国費外国人留学生として広島大学に留学
1983年 九州大学で博士号を取得
はじめに
ダルマプルサダ大学で副学长を务めるモハマド?ショリヒン氏に,ご自身が学生时代に参加された学生交流プログラムについてお伺いしました。
1974年1月,ジャカルタで日系公司や日本车が破壊される激しい反日暴动(マラリ事件)が発生しました。この事件は日本に大きな衝撃を与え,これまでの経済偏重の外交を见直してお互いの文化を学びあう文化交流事业が开始されるきっかけにもなりました。
ショリヒン氏は,このような时期に学生时代を过ごし,反日暴动のあった年の夏に広岛で実施された国际学生セミナーに参加することになりました。文化交流事业の先駆けともなったこの学生セミナーは,ショリヒン青年の人生にどのような影响を与えたのでしょうか。
留学前の日本のイメージ
-どちらのご出身ですか。
东ジャワのラモンガン出身です。スラバヤから车で约1时间のところです。
-大学ではどのような勉强をされましたか。
1970年にインドネシア大学(※)の理学部に入学して化学を専攻しました。
(※)1950年にインドネシアの首都ジャカルタに创设された名门の国立総合大学。
-大学に入学されるまでの日本のイメージはいかがでしたか。
日本製品が多かったですね。何でもメイド?イン?ジャパンだったので。例えば,ラジオやオートバイ,车ですね。
-日本という国はどういうイメージでしたか。
日本という国はよく知りませんでした。首都が东京ということくらい。あと,広岛と长崎に原爆が落ちたということは知っていましたが。
-当时,海外留学の希望はありましたか。
はい。アメリカに留学したいと思っていました。アメリカのいくつかの大学に手纸を出して,卒业后に留学したいと考えていました。
-日本への留学希望はあったのですか?
いいえ。その顷は日本に行きたいとは思っていませんでした。
インドネシアでの反日暴动(マラリ事件)
-1974年1月,日本の田中角栄首相がインドネシアを访问した时に大きな反日暴动(※)がありましたが,インドネシア大学ではどうでしたか。
インドネシア大学は政府に対しても影响力がありました。学生会长の意见や発言はその他の大学にも大きな影响を与えます。当时の学生たちは,ある特定の一つに国の経済的に頼りすぎてはいけないと政府を厳しく非难しました。
(※)1974年1月,田中角栄首相がインドネシアを访问した际に首都ジャカルタで発生した反日?反政府暴动。マラリ事件とも呼ばれる。日系公司や华人系商店,日本车などへの放火や略夺が行われ,11名の死者と多数の重軽伤者および逮捕者が出た。この事件は,日本政府や日本公司に大きな衝撃を与え,経済偏重の东南アジア外交に対する反省を促し,お互いの文化を学びあうことを目的とした文化交流事业を推进するきっかけともなった。
-日本に経済的に頼りすぎてはいけないと。
学生たちからすると,日本や日本人のことをよく知りませんでした。そして日本は商売のことしか考えていない,私たちを利用するだけで商品をたくさん売ることだけしか兴味がないと。そのような印象です。当时,インドネシアには日本の工场や会社がたくさんありましたが,それ以外に日本のことで印象に残っていることはなかったように思います。
-デモ行进には参加されましたか。
少し参加しましたが,あまり真面目には参加していません。勉强が忙しかったので。当时,私は化学科の学生会长をしていました。
-インドネシア大学ではどのようなことが起こりましたか?
田中首相のインドネシア访问に反対する运动がありました。学生たちはサレンバ?キャンパス(※)の前を通って,イスタナ(大统领宫殿)の方向へ行进していきました。私も途中まで参加しました。みんなで一绪にお祭りのような感じでした。
(※)当时,インドネシア大学は理系中心のサレンバ?キャンパスと人社系中心のラワマングン?キャンパスに分かれていた。1988年にほとんどの学部がジャカルタ市郊外のデポック?キャンパスに移転したが,サレンバ?キャンパスは大学院を中心に现在もジャカルタ市中心部に残っている。ラワマングン?キャンパスは现在,ジャカルタ国立大学のキャンパスとなっている。
-车の破壊や死者を出すような暴动となっていたことをいつ知りましたか。
その日の内に知りました。実际に见ましたので。インドネシア大学の前でも车が焼かれて大騒ぎになっていました。なぜこんなにコントロールできなくなったのだろうと思いました。全然わからなかったです。
-デモ行进にはどんな大学が参加していましたか。
主にはインドネシア大学で,あとトリサクティ大学や周辺のアカデミー(短期大学)ですね。
-暴动が终わった后,大学はどうなりましたか。
普段通り讲义が行われ,普通の学生生活に戻りました。私の学部では化学関係の学生エッセイ?コンテストがありました。テーマは自由でしたが,私はそのコンテストで优胜しました。その年の6月顷だったと思います。
広岛の国际学生セミナーへの招待
-その年の夏に広岛に行くことになるかと思いますが。
ある日,私は理学部の副学部长に呼ばれました。インドネシア教育省からインドネシア大学に连络があり,広岛大学から国际学生セミナー(※)の招待状が届いていると。その招待状にはインドネシア大学から4人,バンドンとジョグジャカルタの教育大学からそれぞれ3人に参加して欲しいと书かれてあると副学部长から闻きました。
(※)日本国际教育协会(础滨贰闯)が,1974年から开始した「大学国际交流セミナー」制度による事业。日本と海外の大学との间で学部学生による交流セミナーを开催することによって国际教育交流の推进を図ることを目的とする。広岛大学は同制度による初年度の日本侧主催大学となった。
しかし,インドネシア政府としては3大学からだけではなく,インドネシア全国の各大学から学生を派遣したいと言ったそうです。结局,インドネシア大学からは2人が参加することとなり,学长が理学部から1人を推荐するようと指示したそうです。
-もう一人はどうやって决まったのですか。
法学部の学生が推荐されました。しかし全学の学生会のリーダーは推荐されませんでした。私も化学科の学生会长ではあったのですが。
-最终的にインドネシアから何人が派遣されましたか。
10人です。インドネシア大学以外は全学の学生会のリーダーが派遣されました。ガジャマダ大学,ボゴール农科大学,北スマトラ大学,ハサヌディン大学,アイルランガ大学,ウダヤナ大学,バンドン教育大学などです。
若者の相互理解を目的として
-派遣前のオリエンテーションなどはありましたか。
派遣前に日本大使馆に呼ばれました。インドネシア教育省の主催で参加学生や引率の先生も含めて全员ジャカルタに呼ばれてオリエンテーションがありました。引率教员は1人でアイルランガ大学の教员でした。
-「なぜこのプログラムを実施するのか」について日本大使馆や教育省から何か説明はありましたか。
あまりよく覚えていません。ただ,その理由は后で分かりました。当时,东南アジアでは反日运动が多かった。それはお互いに交流が少なく,よく知り会うことが出来なかったからです。だから,広岛大学はそれを考えて,若者たちを,特に学生を日本に呼んで日本人の学生と交流すればお互いによく理解できるようになり,将来,両国の悬け桥となるだろうということを闻きました。
-それはどこで闻きましたか。
広岛で闻きました。セミナーの目的は大学间の国际交流です。それと関係があるんじゃないかと思います。
広岛への访问,初めての日本食
-いつ顷,広岛に派遣されましたか。
8月顷です。私のアルバムには8月24日から9月10日までと书いてありました。私たちと,确か15人の日本人学生と一绪にゼミナールに参加しました。羽田空港に着いて,东京で1泊して,翌日,新干线で大阪まで。その当时はそこまでしかなかったです。その后,特急で広岛まで行きました。
-広岛ではどこに宿泊しましたか。
本通りの近くにある法华クラブというホテルに泊まりました。朝食の时,初めて日本食を食べました。味噌汁は味が変だと思いました。それから生卵ね。初めて経験しました。
-どのようなプログラムでしたか。
広岛市内の东千田町にあった広岛大学の本部キャンパスでセミナーなどがありました。1週间くらい毎日,夕方までありました。ある先生が発表して,それから质疑応答やディスカッションです。セミナーは英语で行われました。
原爆被害の悲惨さを知る
-内容は覚えていますか。
日本の歴史や平和などです。なぜ広岛は原爆の犠牲となったのか,なぜ広岛が平和の街となったのかなどです。滞在中,平和记念资料馆(原爆资料馆)を初めて见学して,原爆の恐ろしさを知りました。とても悲しく思いました。
-セミナーの集合写真を见るとアリフィン?ベイさんがいますね。
アリフィン?ベイさん(※1)は讲师の一人です。当时,ベイさんがどういう人かよく知りませんでした。详しく知ったのは広岛大学から顶いた本(※2)を読んでからです。
(※1)戦时中にスマトラからの南方特别留学生として来日したアリフィン?ベイ氏のこと。1945年8月6日,広岛大学の前身の広岛文理科大学での授业中に被爆した。
(※2)2015年3月に広岛大学が発行した『被爆した南方特别留学生への名誉博士号授与の记録』のこと。広岛大学は2013年に在学中に被爆した元南方特别留学生3人に対して名誉博士号を授与した。
(ウェブサイト)/ialumni/nanpou

広岛大学での集合写真(1列目左端から冲原学生部长,アリフィン?ベイ氏,中央に饭岛学长,右端から2番目がショリヒン氏)
学生との交流
-日本人はどのような学生でしたか。
国际交流サークルのメンバーが多かったですね。だから皆さん英语を话すことできました。学部はいろいろで,医学部,理学部,教育学部,文学部などでした。
-広岛大学でセミナーの中心になっていた先生はいましたか。
私たちを招待したのは当时,学生部长だった冲原豊先生(※)です。冲原先生は招待状を渡しにインドネシアに个人的に访问されたと私の先辈から闻きました。インドネシア大学とバンドン教育大学を访问されたそうです。しかし招待状は最终的に教育省に渡ったそうです。
(※2)広岛大学第7代学长の冲原豊氏のこと。専门は教育学で学生部长や教育学部长を歴任した。
-冲原先生はいつ顷,访问されたのですか?
多分6月顷だと思います。1月の学生运动の后ですから。

セミナー期间中の宫岛见学(左端がショリヒン氏)
セミナーを终えて
-広岛でのセミナーが终わった后はどうされましたか。
広岛大学の学生と一绪に京都や大阪を访问して,东京に行きました。そして帰国しました。
-プログラムが终わった后,日本に対する见方は変わりましたか。
初めての外国だったし,飞行机に乗ったのも初めてでしたので,とても感动しました。また,日本のことがインドネシアでよく知られていないと思いました。それはコミュニケーションの问题ですよね。交流がないからです。日本で学生と交流できてよかったです。
大学を卒業した後に日本に留学できればいいなと思いました。広島に行った時に『Life and Study in Japan』という冊子(※)をもらいました。それを読んで日本への留学の仕方がよくわかりました。
(※)当时,留学生関係业务を実施していた日本国际教育协会(础滨贰闯)が,1965年度から刊行していた日本への留学情报を掲载した册子。なお,同団体の业务は2004年に日本学生支援机构(闯础厂厂翱)へと引き継がれた。
翌年,再び日本へ
-翌年,再び日本を访问されたとのことですが。
それも偶然なんですが,日本で実施されるサマープログラムの募集が大学に掲示されていました。参加者には日本航空(闯础尝)の奨学金が支给されるというものでした。希望者はエッセイを提出しなければいけません。
-それはいつ顷でしたか。
1975年の7月顷です。早速エッセイを提出しました。このプログラムは全国の大学に募集がありました。その中から10人の作文が选ばれて,最终的に面接で6人が参加することになりました。
-参加者の大学はどこでしたか。
インドネシア大学,ガジャマダ大学,スラバヤ教育大学,ハサヌディン大学で,バンドン工科大学からは2人参加しました。
参加者の中にはリザル?ラムリ(※)がいました。彼はワヒド政権やジョコ?ウィドド政権で大臣を务めたことがあります。当时はバンドン工科大学の学生でした。彼とはそのプログラムが终わってから学生时代に2,3回くらい会いました。
(※)リザル?ラムリ:政治家,エコノミスト。バンドン工科大学物理工学部卒。1990年にボストン大学で経済学博士号を取得。大学时代は学生活动家としてスハルト政権を批判して投狱されたこともある。

プログラム参加のために来日するショリヒン氏
上智大学のサマープログラムに参加
-どのようなプログラムでしたか。
上智大学が実施するサマープログラムに参加することになっていました。ずっと前からあるプログラムのようで,海外の大学から学生が参加してプログラムを修了したら単位をもらえるそうです。私たちは単位とは関係なく,闯础尝の奨学金をもらって参加することができました。
-闯础尝が奨学金を支给したのはインドネシアだけでしたか。
6カ国だったと思います。インドネシア,フィリピン,シンガポール,マレーシア,香港,アメリカです。东南アジアが多いのは,若者,特に学生を呼んで,日本をよく理解してもらおうと思ったからではないでしょうか。
-プログラムの期间や内容はどうでしたか。
7月19日から8月29日までの約40日間です。たくさんの講義の中から自分が受けたいものを選びます。講義が終わってレポートを提出します。私は日本の歴史や日本语などを選びました。なぜなら,その時,大学の最終学年で,卒業したら日本に留学したいと思っていたからです。それで少しでも日本语を勉強しようと思いました。
讲义は半日で,午后は活动といった感じです。日本人の学生が东京タワーや浅草,兜町などを案内してくれました。宿舎は上智大学の寮でした。
-プログラムが终わった后はどうされましたか。
旅行に行きました。京都と広岛ですね。
冲原先生との再会
-広岛にも行かれたのですね。
行く前に冲原先生に连络をしました。前年の国际セミナーの学生たちとも再会することができました。
-冲原先生とはどのような话をされましたか。
広岛大学に留学したいと言いました。そしたら是非来てくださいと言われました。研究计画书を书いて申请手続きをして下さいと。
-帰国后はどうされましたか。
翌年の7月に卒业しました。卒业前に文部省奨学金の申请书を広岛大学に送りました。大学推荐なのでインドネシア大学长の推荐が必要でした(※)。
(※)海外から文部省の国费外国人留学生奨学金を申请する场合,大使馆に申请する方法(大使馆推荐)と日本の大学に申请する方法(大学推荐)とに分けられる。

冲原先生との再会
広岛大学への留学
-それで広岛大学に留学することになったのですね。
当初,10月に来日する予定でしたが,インドネシア教育省からなかなか许可が下りませんでした。卒业したばかりで教员にもなっていないのに,なぜ留学するのかと言われました。しかし学长が教育省に手纸を书いてくれました。この学生は将来インドネシア大学の教员になると。ようやく许可が下りて11月に来日することができました。
-学部はどこでしたか。
広島大学の総合科学部です。日本语を勉強しながら研究生として在籍しました。11月から翌年度の末まで約1年半ですね。翌年の夏頃から研究生が終わった後どうするかを友達と一緒に相談しました。沖原先生にも相談したところ,学位を取りたければ修士課程に進学しなければならないと言われました。
そもそも,最初の顷は国费留学生の仕组みがよく分かっていませんでした。研究生が终わったら何がもらえるかなど。研究の証明だけでは意味がないので修士と博士が欲しかった。
その时,相谈した友达とは1974年に広岛での学生会议に一绪に参加したインドネシア人学生でした。ハサヌディン大学のタンラさんと北スマトラ大学のダルウィンさんで,私より先に広岛大学に留学していました。また,私の后にバンドン教育大学のスギオノさんも広岛に留学しました。
-広岛の学生セミナーに参加した4人の学生が広岛大学に留学したのですか。
そうです。皆,国费留学生の大学推荐です。

広岛の国际学生セミナーでの写真(左がフスニ?タンラ氏(広岛大学マカッサル校友会长),右がショリヒン氏)
博士号を取得してインドネシアへ帰国
-それは面白いですね。大学院はどうされましたか。
薬学を専门としたかったので薬学部の修士课程に进学しました。しかし,当时,広岛大学には博士课程がなかったので,先生が推荐して下さって博士课程は九州大学に进学しました。博士号を取るのに3年半かかりました。でも奨学金は3年间だけだったので,私は摂南大学の助手になりました。半年间そこで客员讲师として勤めて博士号を取りました。
-博士号を取得した后はどうされましたか。
3年半,摂南大学の専任讲师をした后,帰国しました。帰国してからはインドネシアの大学の教员となる予定でしたが手続きがスムーズに进みませんでした。その间に国営公司の製薬会社に就职が决まりました。この会社に勤めている时にフンボルト奨学金をもらって西ドイツに2年间,ポスドクとして研究しました。
青少年交流の重要性
-学生时代に広岛大学の学生セミナーや上智大学でのサマースクールに参加されたことは自分の人生にとってどのような意味があったと思いますか。
若い人たち同士で交流することによって日本に対する理解が深まりました。また,それがきっかけで私は日本に留学したいと思うようになりました。だから,若い人たちの交流プログラムはこれからも続けて欲しいですね。
取材者:平野 裕次
(2018.3.12 写真を追加)