氏名:Thi Ha(ティ ハ)
広岛大学での所属:
広岛大学工学部(1998年编入)
広岛大学工学研究科博士课程前期(2000-2002年)
広岛大学工学研究科博士课程后期(2002-2005年)
现在の职业:建设系総合コンサルタント会社勤务
担当:発展途上国インフラ整备担当

日本で学んだ技术?経験を活かして国作りに贡献できるようになりました
ティハさん(ミャンマー出身)
2016年9月掲载
はじめに
私は、ミャンマーのヤンゴンで生まれました。1994年9月に文部省国費留学生として来日し、日本语学校を経て95年4月、広島の国立呉高等専門学校に編入学しました。その後、1998年4月に広島大学工学部(建設系)に編入学し、同大学大学院工学研究科へ進学後、2005年同大学院で博士号(工学)取得しました。同年4月に建設系総合コンサルタント会社に入社した後は、日本のODA事業を中心に母国のミャンマーをはじめ、発展途上国のインフラ整備事業を担当しています。同時に米国、台湾、中国、タイ、香港などでの土木関係の国際会議で論文発表も行っています。
2014年3月に「広岛大学ミャンマー校友会」発足の际、事务局长に就任しました。
日本语学習や日本留学のきっかけ
留学を決意したのは高校卒業後でした。当時、ミャンマーでは車や電気?電子製品の多くは日本の製品であり、子供の頃から日本の高い技術に関心がありました。そして、資源国家のミャンマーより、資源のない技術国家の日本がはるかに豊かであることを不思議に思っていました。さらに、高校生の時にボランティアで出会った日本の慰霊団や文通の日本人の友達(当時はインターネットの時代ではないので、手紙書いて、文通の友達を作っていました)も日本文化や日本语への関心を深めるきっかけになりました。私が高校を卒業した頃は、政治情勢が不安定で、大学が閉鎖されたり、再開されたりの繰り返しで、若者たちは自分たちの教育について不安を抱いていました。その中で、留学を考えるようになりました。ミャンマーでは、英語圏へ留学する人が多いのですが、私の場合は日本の高度技術が母国の発展に貢献できると考え、日本へ留学することを決めました。
日本语学習の工夫
日本留学を準備していた1993年頃のミャンマーは、現在のように日本语のブームもなく、日本语学校もまだ少数でした。数少ない参考書を本屋や古本屋で一生懸命探し、近所の日本语クラスに通いました。当時の自分の日本语能力は初歩的なレベルで、ひらがな、カタカナ、僅かばかりの漢字しか知りませんでした。しかし、国際学友会日本语学校での猛特訓と高専での日本语教育の制度もあって、日本に来て2年目で日本语能力試験1級に合格しました。特別な勉強法などはなかったように思いますが、日本语クラスでの必死の勉強と積極的に日本人の友達を作って日本语を使う機会を増やしていたことは覚えています。
日本留学の実现まで
当时は日本への留学は容易なことではなく、インターネットの时代でもないので、日本の教育関连の情报はミャンマーにほとんどない时代でした。それに直前まで社会主义国家で、国が闭锁的だったこともあり、海外に関する情报は少なく、情报の収集には大変苦労しました。ちょうどその顷、日本政府文部省の奨学生募集を知り、それに応募しました。当时、ヤンゴンの日本大使馆で奨学金の试験を受け、その年は学部生の枠は一人だけだったのですが,无事合格し、念愿の日本留学が実现しました。留学を计画していた初めは、电子工学を学びたいと思っていましたが、ミャンマーは発展途上国で、インフラ整备や公共事业のために土木技术者をより必要としていると感じ、土木工学を専攻することを决心しました。
来日について
1994年9月29日にミャンマーを出発、数カ国の学生が,バンコクの空港(当时はドンムアン空港)で集合し、日本へ向けて出発しました。成田空港で文部省の関係者が迎えに来ていて、チャーターバスで驹场东大前の文部省関连の寮へ移动しました。同じプログラムでいろいろな国から60人ぐらい同じ寮に入ったと思います。
到着した时の印象
日本の都会に圧倒されました。インフラ整备もミャンマーと全然违うし、惊きの连続でした。初めて自动贩売机を见ましたし、电车の切符まで机械で贩売していたので惊きました。寮にあるカップメンの自动贩売机も、お汤まで出て不思议でした。自分の国がこのレベルになるまであと何十年かなと、ため息も出たと思います。
来日して3ヶ月半たった顷、阪神淡路大震灾が発生しました。日本人学校のクラスで、皆テレビ画面に映っている、あちらこちらの火事、横たわる高速道路、つぶれる建物などを见て唖然としていました。私自身初めて地震を経験したのです。
初めての経験と言えば、初めて雪を経験したのもこの东京でした。その日、たくさんの留学生たちは寮から外に飞び出て、雪合戦をしたり、走りまわったりして、とても楽しかった记忆があります。
東京の日本语学校
東京では1995年3月まで約半年間、日本语を中心に、数学、物理などの予備教育を受けました。学校は歴史もあり、日本语教育の名門校でもある国際学友会でした。半年間、日本语や準備教育について猛特訓を受け、毎日勉強詰めだった記憶があります。それは、私たちが半年後には全国のぞれぞれの留学先へ進学しなければならなかったためです。
広岛への留学
东京での生活が惯れてきた顷、仲良くなったいろいろな国の同期达に别れを告げ、1995年3月下旬顷に悲しみ半分、期待半分で、広岛へ移动することになりました。同じプログラムで広岛へ移动するのは计3人で、私以外にマレーシアとカンボジアからの学生も一绪でした。私たち3人は羽田空港から飞行机で移动しましたが、初めての日本の国内线、そして学生3人だけだったので不安でしたが、広岛空港に学校の先生が迎えに来ていました。
私たちは、呉工业高等専门学校の3年生に编入学しました。私は土木学科、残りの二人は机械学科と建筑学科でした。私は呉高専で3年间学んだ后、広岛大学工学部の3年生に编入しました。その后、博士课程前期と博士课程后期へ进学し、広岛大学には7年间在学しました。折角留学するならば博士课程前期まで行きたいと思っていましたが、博士课程后期まで进学するとは思っていませんでした。しかし、研究を始めると段々と欲が出て来て、学生ライフの顶点の博士课程后期までという思いが强くなっていったと思います。
学部生の顷の生活
呉高専の土木学科から広岛大学へ编入学したのは私一人だけでした。一つの高専の一つの学科から、各大学へ编入学するのは大体一名ずつです。しかし、私同様にいろいろな高専から広岛大学へ编入学してきた日本人の学生も多く、一绪に行动するようになりました。高専で取った教养科目について単位を认めてもらえるものもあれば、もらえない科目もあったので、その単位の取り直しで、3年生の1年间は多忙で、大変だった覚えもあります。4年生になると授业が少し楽になったものの、今度は研究室配属、卒论の研究が始まり、またもや忙しい日々でした。
私は土木构造物が必ず地盘の上に建设されることから、インフラ整备のために地盘工学技术者が不可欠と考え、地盘工学研究室を希望しました。佐々木教授の研究室でした。研究室に配属された1999年の6月に広岛で大规模土砂灾害が発生し、大势の人々が被灾しました。人命も失いました。広岛大学でもががら山で土石流が発生し、寮の前に止めてあった学生の车が流されるなどの被害を受けました。私も研究室の灾害调査チームの一员として现场に入りましたが、このような自然灾害の発生メカニズムを明らかにし、予测精度を高めることによって人命や资产を守ることを目的にして研究しました。その年、私の卒业论文は大学の土木教室の最优秀卒业论文赏に选ばれました。
大学院生の顷の生活
博士课程の前期と后期は同じ研究室で研究に励みました。学部时代とは违い后辈もできたので、后辈を指导しながら、先生方や诸先辈の指导を受けながら、研究を进めていった记忆があります。研究は忙しく、辛い时期もありましたが、土木学会中国支部で优秀発表者赏を取ったり、私の修士论文が工学研究科构造工学専攻の最优秀修士论文赏として选ばれたりして、顽张った甲斐もありました。
私は料理を作るのが好きで、この顷、研究室の仲间を时々家に招いて、ミャンマー料理を披露していました。友人たちが家で饮みつぶれ、いたずらで颜にいろいろな模様を书いたことは、今になって、戻れない学生时代の思い出として残っています。その顷磨いた、私の料理の腕は今でも健在で、作る机会こそ大分减りましたが、今でもたまに自宅で料理を作って、友人达を招いたりしています。
日本の生活で印象に残ったこと
日本での生活で印象に残っていることは数え切れないぐらいあります。日本とミャンマーは似たところも多いのですが、文化、宗教観、食習慣等が大きく違うところもあると感じます。お正月、お花見、お歳暮など、ミャンマーにはない習慣や文化がたくさんあります。食文化も醤油やみそをベースにした和食と、ナンプラー(魚醤)や香辛料をベースにしたミャンマー料理では大きな違いがあります。日本に来て間もなく、日本语学校で日本の食材の授業の際、先生が教室に納豆を持ってきて、学生の多くはその独特な臭いと粘々を見て、逃げたことがありました。
文化や食习惯だけではなく、その他にも印象に残っていることがたくさんあります。初めて新干线に乗った时のこと、瀬戸大桥の见学で巨大桥を初めて见た时のこと、初めて游园地に行った时、初めて日本人友达の家へ泊まりで游びに行った时のこと、24时间テレビ募金活动への参加等々です。日本で初めてスキーに行ったことも忘れられません。大学の友人たちと一绪に行きましたが、初心者の留学生が何人かいる中、私だけが転び続け、一番遅く滑れるようになった気がします。
日本に来て半年も経たないころ、阪神淡路大震災が起き、その後も芸予地震、鳥取県西部地震、火山噴火と続きました。 2014年には広島の大規模土砂災害があり、日本での自然災害の多さには驚いています。その度に日本の土木技術や都市インフラのレベルが向上していくことはとても印象的です。
そして、印象に残る事と言えば、就職試験もそうでした。日本の土木の分野は、留学生が就職するのにハードルが高いと感じました。ちょうどバブルも弾け、日本の建設業界があまり元気がなかったのもその理由の一つかもしれません。しかし、一番大きな理由は日本语の問題や日本の就職試験の難しさだったかもしれません。私も就職試験の準備が大変だった記憶があります。
今の仕事について
私は大学を卒业した后、日本の大手の建设系総合コンサルタント会社へ就职しました。この会社はアジアを中心にアフリカ、中近东、中南米など世界60カ国以上で、途上国の発展を支える多数のプロジェクトを手掛け、母国ミャンマーでもたくさんのインフラ整备のプロジェクトを手かけてきた会社です。その海外プロジェクト第一号はミャンマーの水力発电所でしたが、そのプロジェクトがミャンマーの中学校の教科书に载っていて、それを中学生の时に习ったのも、入社の大きな动机になりました。
私はいつか発展が遅れている母国も国作りの时代になり、インフラ整备や公共事业に土木技术者が多く必要になるであろうという强い思いで、日本で土木工学を専攻し、日々経験を积んできました。入社して最初の7年间は日本国内の现场で国交省等が整备している社会インフラ整备に関わり、4年前(2012年)から海外事业部へ异动し、ミャンマーを中心に発展途上国で日本政府の翱顿础で実施する开発事业や社会インフラ整备事业に関わっています。
ミャンマーは政治的混乱もあって、开国するまで时间がかかりましたが、4年前から念愿のミャンマーのインフラ整备や公共事业へ贡献できるようになりました。闯滨颁础、国土交通省、経済产业省等のプロジェクトでこれまでの都市部だけではなく、地方の少数民族の住む地域も含め、数多くのプロジェクトに関わり、日本で学んだ技术?経験を活かして国作りへの贡献がようやくできるようになりました。今年はベトナムで日本の翱顿础で実施している开発プロジェクトを担当することになり、これから3年间程度、ベトナムを中心に発展途上国の开発事业に関わっていく予定です。

文通の日本人の友人と一绪に

修了式にて佐々木教授,森脇助教授と一绪に

広大主催の若手国际シンポジウム

大学留学生会でのミャンマー踊り

自宅で友人たちとミャンマー料理を楽しむ

スキー旅行