「どうも正解があることが前提の方法论で、问题と结果とが结びつけば、そのプロセスは気にしていないようですね。だから、结果というか结论というか、それが正解か、あるいはそれで点が取れるかという観点のみのようだけど、论理的な思考は条文や原理原则论から立ち上げて、论理を必然性で结び付け结论を导くというプロセスを重视するので、勉强のベクトルの向きが正反対でしょう。だから、日顷の勉强から、どうしてこの场面が法律论で取り上げられるのか、どういう対立があるのか、その対立がいかに解决されるのか、その解决のための规范や要件はこれでいいのか、とか、プロセスを追う际に疑问を持ちながら分析し検証する癖をつけないとね。」と答えると、「それでは时间がかかります。早く试験に受かって独り立ちしたい。だから、。」と食い下がります。
「何らかのメソッドがあればそれを使って自分を『らしく』见せようとしているように闻こえるけど、あくまで他人のメソッドだからそれを受け入れ駆使できるようになっても、あなた自身のスキルは高まらないよ。自分のスキルを高めて必要なメソッドを创り出せないと、独り立ちできてもクライアントに迷惑をかけるじゃない。特に正解のない世界ではね。」
ここから、プロセスの分析と検証を伴う勉强を一绪にトライしていくことになります。
受験仲间と一绪に勉强していた旧司法试験の顷から、司法试験も大学受験等での受験勉强で合格できるという考え方は広がりつつあり、出来上がった论証や模范答案の论述を拾い集める辈も増え始めていたのを覚えています。
幸い、ゼミ仲间にはそういう风潮に乗るメンバーはいなかったので、自分の基本书の论理プロセスを、行间の意味(経典では文底沉意)を汲んで明らかにしようと议论して、司法试験に合格できるまで自分のスキルを高めて、试験会场でそのスキルを活かすことができ、ゼミ仲间は合格したと考えています。
当时は受験生の多くがスキルの向上を竞っていたために、合格まで平均5~6年を要していたのではないかと思いますが、その间に、时に不合格の结果に直面し、勇気をもって自らの现状を直视し分析して自分に足りないものを明らかにし、それまでの勉强法を试験で求められているものに见直し、これだという方向性を定めれば、しっかりとした计画を立て前进する、行き詰まっても工夫をしながら、信念をもってやり遂げていくというスキルを身に付けています。
このスキルに法的専门知识が加わることで法曹になるための切符が授けられるように思います。
ただ、最近はますます机械的な学习法とか、个别的な学习指导とかによって受験者自身が考えるべきことを教える侧が考えて提供するために、受験者は主体的に学习を工夫することをおろそかにし、合格するのに必要な知识をお金で买う消费者的思考が强く、学びの机会を共有しても、なぜすぐに役に立つ知识、つまり答案に书いて评価される论述を教えないのか、高い授业料を払っているのにどういうことか、さっさとこれで翱碍という万能薬のような正解を教えろという不平不満が充満してくるのが手に取るようにわかります。
素直で正直な态度は美徳だと思います。それで世の中を过ごしていければ良いのでしょうけれど、不条理なことも多々生じています。それによって困っているあるいは苦しんでいる人があれば、その不条理を明らかにする必要があります。それは苦しみを生み出すプロセスを浮かび上がらせ、それを分析し検証することが最初の作业でしょう。この作业では1つ1つのプロセス形成要素を批判的な目で追究しなければ、不条理に気づきません。
これまでとは违って、ここに不条理があるよと正解を教えてくれることはないでしょう。それは自分がやらねばならないことです。そのためにプロセスの分析と検証を行う意识づけをし、その癖をつけて、その能力を习得し磨いていきます。これによって不条理に苦しむ人に手を差し伸べることができるでしょう。
説明すれば分かるのだけれども、现在は当面のハードルである司法试験に合格したいという思いに焦がれていますし、これまでの勉强が骨の髄まで染み通っていますから、すぐには纳得しません。これをはねのけるにはかなりのエネルギーを要します。
でも、本を読んで当然の疑问が浮かぶようになり、自分で読み込んで疑问を解消する、あるいはやはりおかしいと思うことが知的刺激となり楽しみになって目が辉くのを见ることはしばしばです。それがこちらの励みになります。
次回は「広く浅くの错覚と画一化への执着による轮廻」です。
