「受持」は、仏法の経典を読诵する际に唱える开経偈のなかに出てくる言叶です。釈尊の説かれた法(教え)を、见て闻いて「受け取り自分のものとして持する(たもつ)」ことを意味します。つまり、法(教え)を、言叶や所作として覚えるだけではなく、その本当の意味を理解するために、日々の生活に取り込み、それに照らして自らの行动をコントロールしていくことが肝要であるということです。
仏法では縁起の法がその要であると言われます。縁起の法を説く経典は多々ありますので、それを目にし耳にする机会もあろうかと思います。日々、経典を読诵すれば空んずることも可能です。
しかし、それはその経典の意味、つまり縁起の法を理解することとは违います。縁起の法によれば、すべては、縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって灭するのであって、その存在は有でも无でもなく、空であるととらえるそうです。原因があってこそ、それを助ける縁が集まり、これにより结果が生じるとともに、报いを受けることとなります。その报いを受けることが新たな原因となります。善因であればそれを助ける縁が寄って、善果が生まれ、その报いはその人にとって善きものとなり、悪因があれば縁が揃えば悪果を生み、苦しむこととなります。善因善果、悪因悪果と闻くところです。
経典を学び、読诵し、すらすらと発せられるようになると、何となく縁起の法がわかったような気になります。すらすら読めることが习熟したとの误解を生むのです(流畅性の错覚)。そもそも学んだことや経典を繰り返し読むことで、详细をも记忆することができます。それは、记忆を呼び起こすたびにその记忆に至る回路が强化され、记忆そのものも强固になるからにすぎません。
日常生活で自分に都合の悪いことが生じたときに、その原因が自分の中にあるとして自らを反省することなく、その结果の惹起を助けた縁を非难するのでは、おそらく縁起の法を自らの生活の中に取り込み、その教えに従っているとは言えないでしょう。自分が経典の真义を知っているのか否か、それを理解しているのか否かを正确に把握する术(自らの生活の中で因縁果报をどのように见ているのかを客観的に観察できる方法)が身につけば、自らの生活の中に縁起の法を活かして善因を积むことに励むでしょう。これも、高僧が仏法の核心を问われた际に「诸悪莫作?众善奉行」と答えたのに対し、质问者がそんなことは3歳の子供でも知っていると呆れたのを见て、「3歳の子供でも知っているが、80歳の翁でも実行することは难しい」と諭したとの话を闻きます。法や教えは自分の生活において自ら活用できるように努める修练が必须であり、それにより难しさを克服していくのです。
法律学の勉学も、実务家を目指すのであれば、学んで知ったことを理解し、裁判例を素材に事案処理を繰り返し、知识を强化、拡充、修正する学习能力を向上させて、自分でさまざまな事例に活用できるように修得することが重要です。仏法の体得と共通すると思います。
次回は「口癖」です。
