最近、ものの成り行きを予测しこのままで行けばどうなるか、その行き着く先が望ましいのか、望ましくないとすればどういう方向を望んでいるのか、その方向づけに今现在何をしておくべきなのかを一绪に考える机会があります。
それは一绪に考える相手の将来のことであることが多いのですが、そのなかでしばしば気になることがあります。それは経済活动的な思考、つまり、最小のコストで最大の成果を得るにはどうするかという発想が缠わり付いてくることです。
将来自分がこうなりたいという构想において何が必要なのかを客観的に捉えられる能力试験の点数や资格试験合格による资格取得等に绞り込んで、それを得るにはどうすればよいか、できるだけ简単な方法を教えてほしいというのです。
「自分の将来のことなのに横着な考えだな」と思いつつ、简便な方法で一定の能力や资格を手に入れてもそこから先に広がる世界にどう向かって行くのかを寻ねるのですが、それはその时に考えるとのことです。その时にまた僕にどうすればいいと相谈にくるのかと冗谈めかして言うと、そうかもしれませんと答えが返ってきます。そう先の话ではないけれども、その时点における自分がきわめて単纯にしか想像できない、あるいは想像することもなく他人事のように自分の将来を见て第叁者に考えさせているんだなと思うと、ますます横着なだと感じるのですが、それに気づかずに自分では贤く生きていると思っているらしい素振りを见て、自分が成长することを考えられないことにやりきれなさというか、悲しみを抱いてしまいます。
新刊书を読んでいて、朝叁暮四におけるサルの论理形式を内面化する人々が社会において多数を占めつつあり、その人々は、自己同一性を未来に延长することに困难を感じる时间意识の未成熟と、自己同一性の空间的な缩减を属性とするとの指摘になるほどなと思いました。将来を考えるには自己同一性が维持されていることを前提に、そのプロセスをあるべき自分に応じて因果律に照らして割りだしていくのですが、そのプロセスには知的な成长や成熟が折り込まれており、精一杯の努力(失败や挫折を味わうことも含めて)が求められます。これを邪魔するのが経済行动的な思考を装った横着心です。
横着心はできるだけ楽をしてできる限りのよい効果を得たいという心癖です。谁もが持っているものでしょう。しかし、横着心に缚られていたのでは、その时だけは楽なのですが、その先でそれまで楽した分のつけを払わさせられるので、しかも后回しにされたつけは大きく、そのプロセスで払う场合よりも厄介で楽した以上の苦労を要し、そのためにその先の将来构想を溃してしまうこともあります。确かに横着心を満足させるためにいろいろな道具や技术が生活の様々ところを支え効率化させています。が、それは、费やすべきエネルギーを省いて楽のみを得るというアンバランスを生み出しますから、そのつけの支払いの苦しみだけが膨らんで、环境破壊や核兵器による胁威など、存在そのものを危うくする歪みを生じさせているように见えます。しかし、科学技术の进展に供なって迅速性と効率性による利便性が最优先の课题となり、これを追い求めてくいくなかで、横着心が通常の思考パターンとして定着してしまっているようです。同じものを手に入れるのであれば、时间とエネルギーをできる限り投入せずに済ませることがスマートで、一生悬命自助努力を重ねるのはダサく格好悪いのだそうです。
プロフェッショナルを养成する场でも、资格取得等を学习成果ととらえる倾向が强く、目に见えるところに结果を设定し、成功か失败かが一目瞭然であるなかで、何よりもその结果を格好よく手にすることに重きがあるようです。
しかし、一定の成果を得られるにしろ、惜しくも得られなかったとしても、そのプロセスにおいて、目的达成にむけて知恵を绞ることがその人を成长させることは明らかでしょう。様々な障害や问题に苦しみ悩むことから、それらを乗り越え解决しようとの勇気を持って、原因を探求し新たな戦略を练って工夫し、それを実践する、そして、これまでの自分の枠を超えて自らを拡大していくことにつなげ、自らを成长させます。この成长には限界がありません。自分がどこまでいかに成长していくのかは、自分自身を客観的にかつ繊细に省察することで确认できます。しかし、省察の习いがなければ小さな変化に気づくことができず、自分が気づかないものに他人が気づくとは思えないので、自信がもてないのでしょう。
この壁は自分の成长に価値を置きともかくそれを求める努力によってしか超えられないようです。この努力ができる、続けられることはまさに一つの才能であることを褒めたたえて修得にいたらせる、それも教育の一つではないでしょうか。
悩みや苦しみが人を成长させるのではなく、どう悩み苦しんだかだと思います。楽に成果を上げるにしても悩みはあると言われるかもしれませんが、それはあくまで横着心の现れのなかでのことであって、横着心を超えていくことはできません。
仏法では、人间界も人间の悪因縁を解脱することが求められますので、横着心も超えるべきものでしょう。人间は、他の境界に比べれば、その业を解消することに少しゆとりがあるために、悪因縁や业を忘れてしまいます。つまり、因縁に纽で结びつけられているのです。しかもその纽に长短があるのです。纽が长ければ动き回る范囲も広いのですが、その分、悪因縁が働けばその悪影响も広きに及び重大です。その纽のゆとりで因縁を増长させてはならず、その纽を切るためのゆとりなのだと学びました。
次回は「新入生の皆さんへ」です。
