执笔者
小池圣一
はじめに
滨本博登広岛大学名誉教授(以下、滨本先生と略记)は、呉镇守府を临む呉市広长浜で明治43年3月24日に生まれられた。実家が网元であり船に亲しまれた滨本先生が、当时の造船技术の粋を集めた军舰に魅せられ、造船学?船舶工学の道を歩まれたのも、自然であったのかもしれない。
滨本先生は広岛第二中学校、旧制第六高等学校をへて、东京帝国大学工科大学船舶工学科に进学され、昭和8年(1933年)に卒业。その后、呉海军工厂に勤务、昭和11年8月8日付で叁菱长崎造船所技师となられた。昭和12年10月から同17年11月まで海军舰政本部に嘱託として勤务している。昭和19年3月より叁菱重工业広岛造船所において戦时标準输送船の设计等を担当された。
この过程で、滨本先生は军舰の线図等を先辈の造船官等から譲られた。败戦后、昭和20年9月20日付の军备撤廃要领に基づき、旧海军舰政本部が所蔵していた膨大な设计図が全て焼却されたなかで、滨本先生が所蔵された各种线図は贵重な一级资料である。また戦时体制のもと、滨本先生は技师として、船舶基本设计、船体局部强度、艤装、復原性、溶接工学など造船学?船舶工学に関する広范な分野を実地に学ばれた。この実地での経験が后に各分野における研究を生み出し、それを総合した船体构造用肘板に関する一连の研究では、国际的にも高い评価を受けられたのであった。
そして昭和20年12月、自ら広岛の原爆を体験されたなか、広岛工业専门学校造船科の教员として赴任され、その再建に尽力されるとともに、昭和26年3月、新制広岛大学工学部船舶工学科教授となり、自らの経験に里付けされた亲身な指导をされた。昭和48年3月、広岛大学工学部教授として定年を迎えられるまでの28年间、各界で活跃する700名にのぼる卒业生を辈出されたのであった。また、その専门性を生かして海难审判の各种事件の原因鑑定なども行われた。広岛大学定年后、长崎造船大学教授に就任され、同大学は昭和53年7月に名称変更で长崎総合大学となったが、引き続き同大学教授として勤め、昭和55年3月大学を退职。その后、御病気となり、昭和56年5月26日に亡くなられた。同日、勲叁等旭日中授章を赠られている。
滨本博登関係文书の来歴
滨本博登関係文书は、平成21(2009)年3月30日に茂里一紘広岛大学名誉教授をへて、広岛大学时代の讲义ノート等の寄赠(第一次)を滨本隆夫氏より受けた。その后、平成22年4月5日に戦后の造船学関连の资料等の寄赠を受けた(第二次)。同年5月10日に呉市広长浜の滨本邸に伺い、书斎?蔵などを见せていただき、戦前戦后の资料を(第叁次)、平成24年9月14日に个人履歴?滨本家関係资料の寄赠を受けた(第四次)。さらに平成25年9月11日に寄赠(第五次)を受けた。これらの过程で受け入れた资料について、平成29年12月に目録を刊行したが、新たに平成31年4月に滨本隆夫氏より资料の追加寄赠を受けた。
また濱本隆夫氏から呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に寄贈された資料2,599点(文書等1,148点、図書624点、雑誌786点、物品41点)について、戸高一成館長の御厚意もあり、広島大学文书馆に長期貸借を受けた。これにより濱本博登関係文書が基本的に整備されることとなった。
この寄赠の过程は、滨本博登先生の御遗族、望月昌子様、中村光子様、寄赠者?滨本隆夫様がともに広岛大学の御出身ということと、工学部长等を歴任された広岛大学名誉教授茂里一紘先生の御尽力、ご遗族のなかでも中村光子様のご厚意?ご尽力により完成することができた。
なお、呉市海事歴史科学馆には、広岛大学より3000迟大型强度试験机が移されている(平成23年7月)。この强度试験机は、ドイツから昭和9年に输入され、旧呉海军工厂に设置されて戦舰大和等の舰体强度试験に使われ、戦后、鉄道技术研究所に移管してからは新干线车両连结器などの强度试験に使われたものである。また、滨本先生の尽力により、昭和43年、本学に移管してからは瀬戸大桥や明石海峡大桥の构造物の强度试験などにも使われた。
なお、本资料については、呉市海事歴史科学馆及び広岛大学大学院工学研究科と共催で、平成24年10月30日から翌月5日までの7日间、広岛大学図书馆で特别企画展示「昭和の造船教育者?滨本博登」を行っている。
本滨本博登関係文书は、戦舰大和の建造に代表される戦时日本の造船技术の発展が、教育面でも戦后日本の造船业に寄与し、大学教育のなかで生かされていったのかを、滨本博登先生の事绩を通じて明らかにするものである。
これまで、戦前期日本の造船技术における一つの顶点として戦舰大和の建造が位置づけられ、船舶设计、生产管理技术等、戦后日本の造船界の兴隆にいかに贡献したのかが多くの文献等によって明らかにされてきた。しかし、その造船界を支えた人々を送り出す教育面での贡献についての研究は多くない。本目録の公开を通じて、戦时造船の教育面での贡献について、その一端を明らかにすることができることを期待している。
滨本博登関係文书の内容
濱本博登関係文書は、広島大学文书馆が所蔵する濱本博登文書、滨本家文书、中村光子文书、および呉市海事歴史科学館長期貸借資料から構成される。以下、それぞれの文書につき解説する。
滨本博登文书、呉市海事歴史科学馆长期贷借资料
1.&苍产蝉辫;个人?履歴関係等
个人?履歴関係等には、滨本先生の履歴関係书类(履歴书?功绩调书、各种辞令、成绩、旧制六高时代のノートも含まれている)が含まれる。特に六高の讲义ノートは、旧制高校の讲义内容が理解できる贵重な资料である。また手帐、写真?アルバム等も含まれている。
2. 書類
(1)戦前
①呉海军工厂时代
东京帝国大学工学大学造船学科卒业后、滨本先生は徴兵を挟んで呉海军工厂製図工场?造船実験部?造船研究部に勤务した。この时、戦舰大和の建造にもかかわったと言われている。豊后水道を公试运転中の戦舰大和の写真は有名であるが、これは滨本先生旧蔵のガラス乾板写真である(遗族が保存)。呉时代、滨本先生は舰艇建造における电気溶接について研究している。
②叁菱重工长崎造船所时代?海军舰政本部业务嘱託期(昭和12年10月~昭和19年1月)
滨本先生は、海军舰政本部に嘱託とし戦时标準输送船の设计および実験で関与した。また叁菱长崎造船所时代(昭和17年11月~同19年2月)、滨本先生は、叁菱长崎工业青年学校(明治37年(1899年)创立、昭和10年に青年学校に改组)で造船学の教鞭をとっていたと考えられる。长崎工业青年学校での経験は、后に広岛大学工学部等での教育の原型をなすとともに、次世代の人材育成という教育の重要性を认识させたことであろう。そして、この経験が败戦后、叁菱重工业を退社し、広岛工业専门学校(広岛大学工学部の前身)で教鞭をとることを决意させたと言える。
③叁菱重工业広岛造船所期(昭和19年2月~昭和20年11月)
広岛造船所において滨本先生は、技术部造船设计课に勤务し、船殻係长兼资材係长、造船设计课长として勤务していた。
(2)広岛大学関连
本项目は、広岛大学での教育?研究资料で构成されている。具体的に、内容から、①研究ノート、②研究资料、③教材、④指导、⑤试験、⑥参考资料、⑦その他、に分类した。
败戦后、昭和20年12月に、滨本氏は、広岛工业専门学校の教员として赴任。以后、昭和24年の新制広岛大学の発足にあたり船舶工学科(现在の大学院工学研究科输送?环境システム専攻)の教员として学生の指导にあたられた。その豊富な経験に里打ちされた亲身な指导は、各讲义ノートから理解できる。
(3)海难审判関连
滨本先生は、カーフェリーさいとばる、小型客船第五北川丸などの海难事件について、その転覆原因の鑑定にあたっている。
(4)技能検定?溶接技関係
海技试験、溶接技术等の试験问题?検定関係の资料が所収されている。
(5)その他
3. 書籍等
造船工学等、広岛大学で研究?教育に使用した书籍及び册子等で构成されている。
滨本家文书
滨本家は呉市広长浜の网元であった。本项目には、幕末から昭和戦前期までの滨本家が蔵に所蔵していた资料を1.网元関係、2.教育?文化関係に分けて採録した。必ずしもすべてが揃っているわけではないが、土地証书、「掛金受取証」「渔网御荘売捌帐」、书付、帐簿等が含まれている。
中村光子文书
滨本先生の次女、中村光子氏の履歴书、通知表(目録には掲载するが非公开)、时间割、呉叁津田高校时のノート、広岛大学文学部のノート等が含まれている。