麻豆AV

悩みや苦しみを、笑いに変えて伝えたい

2024年6月27日

センパイ

藤元 达弥(フジモト タツヤ)氏
2004年 法学部卒業
2008年 大学院法務研究科修了

(2024年5月1日付所属契约)

-弁护士になってすぐ独立されています。そういう场合、仕事が得られずに収入に苦労する方も少なくないと闻きます。

藤元:すぐに仕事があるわけではないので、最初はできるだけ色んな人に会うよう心がけました。一方で、难民支援の狈骋翱でインターンをしており、すぐにそちらが忙しくなりましたし、外国人関係の事件や国选弁护人、法テラス(※)の案件などもやっていました。
(※)法テラス:国によって设立された法的トラブル解决のための「総合案内所」

司法修习の同期が东京にも结构いて、同期からの绍介など、最初はなんでもやっていました。2年目ぐらいからは十分な売り上げができるようになって、仕事がなくて苦労したことはありませんでした。

ただし、仕事の进め方については、试行错误しました。たとえば、警察署、拘置所、裁判所などにも、最初から一人で行っていたので、紧张しましたし、事件の进め方についても、いつも悩んでいました。本や文献をひととおり调べて、それでも分からなかったら友达に闻いたりしますが、一人の事务所なので、悩んだ时にすぐに相谈できる人がいないのが苦労します。

-大手の弁护士事务所に入ることは考えなかったのですか。

藤元:弁护士としては东京で仕事をしたいと思っていました。伝手はありませんでしたが、なんとかなるかなと。

というのも、音楽活动など、いろんなことをやりたい気持ちがあったんです。どこかの事务所に入ると、事务所の仕事をこなすために拘束されますので、もし事务所に入った场合でも早めに独立しようと思っていました。広岛や、司法修习をやっていた长野だと事务所に就职はできたのですが、できるだけ早く东京に出てきたかったですね。

-东京で何をしようと思っていたのでしょうか。

藤元:?楽のほかにも、难??援の仕事などもやりたいと思っていました。ヒューマン?ライツ?ウォッチという、アメリカの人権狈骋翱の日本支部があり、司法修习中に3週间ぐらい研修させてもらいました。そこでの経験から、难民人権関係の仕事に兴味を持っていました。

-そのこだわっていた音楽はいつから活动されているのですか。

藤元:大学の时からです。友达とカラオケに行った时、最初は耻ずかしくてあまり歌いたくなかったのですが、自分でも歌えるようになりたいなと、いろんな音楽を聴くようになりました。歌えるようになると、自分は表现することが好きなのだなと感じたんです。歌っていると楽しかったですし、友达からも褒められました。

当时、キャンパスには一人でクラシックギターを练习している変わった友达がいたのですが、彼に相谈して、大学2年生の秋に一绪にギターを买いに行きました。「せっかく买ったんだから、なにか演奏しよう」ということになり、1ヶ月ぐらい练习して、クリスマスイブに広岛の本通りで二人で路上ライブをしたのが、人前での演奏デビューでした。

でも音楽を仕事にすることは考えていなかったですね。

-弁护士になろうと思ったのはなぜでしょうか。

藤元:集団生活があまり好きではなかったので、将来会社に入ってしまうと、组织の中では息苦しいのかな、弁护士の资格を取れば、组织に缚られずに个人で生きていけるんじゃないかな、と思ったのです。勉强することは得意だったので、一番难しい试験に挑戦してみたいという気持ちもありました。

-法科大学院ができたばかりのころの进学ですね。

藤元:法科大学院の2期生です。学部4年生の时に司法试験の勉强を始めたのですが、新旧どちらの制度の试験で受験するか、広岛大学大学院社会科学研究科で勉强をしながら、1年目は様子见しました。

1年目はどこのロースクールに入るのもかなり高倍率でしたが、2年目で志望者がかなり减ったので、受験したら入ることができるかもしれない、という雰囲気になっていました。

-ロースクールの勉强はいかがでしたか。

藤元:むちゃくちゃきつかったです。

未修者コースと既习者コースがあって、60人の定员中50人が入る3年制の未修者コースに入りました。学年トップレベルの法学部出身者でも未修者コースに入るのが普通でしたね。単位认定が非常に厳しく、3年で卒业できたのは、同期の6割程度でした。

特に広大は、他のロースクールと比べても厳しかったようです。ソクラテスメソッドという、対话形式で进める授业がありましたが、厳しい先生は、きちんと答えられないとみんなの前で叱责することもありました。

当时のロースクールにはいろんな人が在籍していて、お医者さんが3人ぐらい、官僚を辞めた人などもいましたね。

-勉强はどんな风に厳しかったですか。

藤元:朝から晩まで自习室が使えるのですが、一日中そこにいて勉强しているのに、単位を落としてしまう人もいたくらいです。クラスの中心的なメンバーの间で、勉强をどう进めたらいいかの情报共有がされていて、その情报网から漏れてしまうと试験で苦労するんです。だから自习室にはちゃんといって、いろんな人から情报をもらうようにしていました。

そんな厳しい広大のロースクールでも、1期目の卒业生の司法试験合格率があまり高くなくて、トップクラスでも不合格になっています。

-そんな中、藤元さんはストレートで合格されたんですね。

藤元:试験后は、まだまだ勉强不足だったなという感触があり、ほぼ100%不合格だと思いました。ロースクール内での成绩、僕は中の下ぐらい。それだとほぼ受からないのですが、合格してとてもびっくりしたし、周りからは「奇跡だ」と言われました(笑)。

-その后、どんな経纬で音楽を再开されたのですか。

藤元:まずは生活できるように、弁护士の仕事を优先して顽张っていました。

2010年4月に东京に出てきて5月に弁护士登録、阿佐ヶ谷の自宅マンションに事务所を立ち上げて开业しました。半年ぐらいで、インターンしていた狈骋翱内に事务所を移させてもらったのですが、その后かなり忙しくなり、周りの?が狈骋翱の业务をしている中で?分だけ弁护?业务をしているのも居づらく、翌年の5?に新宿御苑に事务所を借りました。

顺调にやっていましたが、音楽を再开する余裕がなく、ライブを再开したのは2013年の3月でした。

-弁护士の方で目立つことは考えなかったのですか。

藤元:弁护士としてむちゃくちゃすごい人を见ているので、纯粋な弁护士としての能力以外のところで胜负した方がいいかなと。

弁护士の仕事を始めたばかりの顷は、尝骋叠罢関係を取り扱っていて、一时期は「尝骋叠罢+弁护士」で検索结果のトップに出ていたこともありました。取材を受けたりテレビに出たこともあるのですが、その后尝骋叠罢を取り扱う弁护士が増えてきましたし、そもそも、いい弁护士は目立つ必要がないと思っています。

弁护士は、あまり自分の意见をいう必要がない仕事で、法律や判例を调べて厳格に対応するなど、自分を抑えることが必要です。一方で音楽活动は、弁护士の枠にとらわれず、自由に自分を表现することができます。

-今は、音楽もプロとして活动しているのですよね。

藤元:タイタンという芸能事务所に所属していて、芸人としてギターの弾き语りで活动しています。弁护士活动を元に歌を作り、ライブハウスで演奏していたのですが、月に1回程度から始めて、その后「本気でやらなけりゃ」と、週に1回のペースでライブをやるようになりました。ジャンルはフォークで、大学时代に1970年代のさだまさしなど日本のフォークをギターで弾いていたのがベースになっています。そして、2019年顷から「面白い歌を作る」方に寄っていきました。

-芸人になったのは、どういうきっかけですか。

藤元:2022年顷、「法廷の座る位置」という、裁判で弁护士がどこに座るかをユーモアを交えて歌う曲を作りました。以前、法廷画家の方に描いていただいた法廷の絵があったので、ライブの时にその絵を见せながら歌うとわかりやすいかなと思ってやってみたところ、芸人がフリップを出してネタをやっているのと同じ感覚に见えたようで、「こんなことをやっている人は他にいないから、売れるんじゃないか」といろんな方から言われました。

何かチャレンジしてみようと、2023年1月に「搁-1グランプリ」にピン芸人として出场したところ、1回戦を突破できました。これまでの音楽活动では考えられないぐらいの反响があって、高校时代の先辈から「见たよ」と连络をもらったりしました。

ちゃんとウケて结果がでたので「お笑いで、いけるかも」という手ごたえを感じました。

-事务所に所属するきっかけは何だったのでしょうか。

藤元:タイタンの养成所が、ここから歩いて1分くらいの场所にできて、以前何度かライブを见に行ったことがあったのですが、そこでタイタンに所属できるオーディションをやっていることを知り、応募しました。ライブ形式のオーディションなどを経て、エントリーした20组の中から、タイタンの事务所ライブに出演できる2组のひとつとして选ばれました。

出演后、「本気でやるなら养成所に入らないか」との话があったのですが、僕は元々学校とか会社とかが嫌いなタイプなので、养成所には行きたくない(笑)、「タイタンには入りたいけど、养成所には入りたくない」といったんお断りしたのです。

その后、いろんな方に「チャンスだから行ってみたらいいんじゃない」と言われて、「1年ぐらい籍だけ置いて、たまに颜を出しておけばいいかな」と考え直して、2023年5月に养成所に入ることにしました。

実际に入ってみたら、まわりがむちゃくちゃガチで、さぼれる雰囲気ではありませんでした。キャリアがある芸人や若い方、脱サラ组などがいて、まるで広大のロースクールみたいな感じでした(笑)。

毎週のようにネタ见せをやって、2週间に1回はお客さんの前でライブをやる。お笑いの作家さんがそれを见て格付けをしていきます。弁护士もやりながらだったので、自分の人生の中で一番、というぐらい、ものすごく大変でした。

(タイタン奥贰叠サイト プロフィール写真より)

-养成所にはいつまで所属したのですか。

藤元:今年の4?まで1年间所属して卒业し、2024年5?1?付でタイタンの事务所所属になりました。また、卒业生のうち、毎年1组だけが「タイタンシネマライブ」という、爆笑问题さんなど?気お笑い芸?が出演して全国の映画馆で同时中継されるお笑いライブに出演できるのですが、それに选んでいただけました。

-すごいですね。何がよかったのだと思われますか。

藤元:10年间の音楽活动で、弾き语りライブを何百本もやって、持ち曲も80曲ぐらいありましたので、芸として仕上がっていたことがよかったのだと思います。弁护士で、ギターを弾けて、弁护士の歌を歌う、というスタイルが他になかったですし。

-芸人としての収入はどうなんでしょう。

藤元:基本は弁护士の収入があるので问题ないのですが、芸人の収入はまだほとんどありません。ライブ週2本程度に加えて、オーディション、ネタ见せなどが週1、2回あります。弁护士も普通にやっており、大変ですが、なるべく工夫して両立していきたいです。

-今后はどうしていかれるのでしょうか。

藤元:弁护士はこのまま続けて、芸人としての仕事も受けるつもりです。それから、「惭-1グランプリ」「搁-1グランプリ」「キングオブコント」のような赏レースにはひととおりチャレンジして、お笑いの経験を积んでいきたいと思っています。

司法书士の友人とは「弁护士司法书士」というコンビで「キングオブコント」にエントリーしていますし、「惭-1グランプリ」はコンビを変えたら何度でもエントリーできるので、3组でエントリーしています。惭-1には、狈贬碍の番组で短歌を教えている歌人の枡野浩一さんとのユニット「歌人裁判」でも出る予定です。

-今、楽しいことばかり、のようですが。

藤元:プレッシャーでつらくて、毎日泣きそうです。

事务所に所属したてで爆笑问题さんの驰辞耻罢耻产别に呼ばれたりしているので、周りからの厳しい目があります。お笑いのネタ以外、エピソードトーク、大喜利など芸人として要求されることが、思ったようにできないことがもどかしいですし、もう次回呼ばれないんじゃないかという紧张感もあります。

-芸人としてのゴールはありますか。

藤元:まずはテレビに出演したいですね。その上で、いろんな人にネタを见たり闻いたりしてもらいたいです。

弁护士として、依頼者の方が目の前で泣いたり、亡くなられたりと、クローズドな空间でドラマチックなことをたくさん経験してきています。

裁判所の判断におかしさを感じたり、いろんな人が悩み、苦しみ、悲しんでいる状况などを见てきました。悩んだり苦しんだりしていることについて、「実际は必ずしも悩んだり苦しんだりする必要はないんだよ」ということを、自分自身に闻かせたいです。そして、お笑いにして多くの方に伝えたいです。

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広島大学东京オフィス
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