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株式会社ウフル 颁滨翱(チーフ?イノベーション?オフィサー)兼滨辞罢イノベーションセンター所长兼エグゼクティブコンサルタント 八子知礼氏

访问日

2018年10月16日

センパイ

八子 知礼(ヤコ トモノリ)氏

1997年工学研究科(第二类)修了。
卒业后は松下电工、アーサー?アンダーセン(のちに吸収合併を経てベリングポイント)、デロイトトーマツ?コンサルティングの执行役员パートナー、シスコシステムズのビジネスコンサルティング部门のシニアパートナーとして同部门の立ち上げに贡献。2016年4月より现职。

株式会社ウフル

访问记

株式会社ウフル CIO(チーフ?イノベーション?オフィサー)兼IoTイノベーションセンター所長兼エグゼクティブコンサルタント 八子知礼様(1997年工学研究科(第二類)修了)

八子氏が电気分野に兴味を示し始めたルーツは、少年时代のある経験にありました。

八子「もともとコンピューターに兴味がありましたね。小学生のころ、电気屋さんの店头に置いてあるパソコンに、雑誌に书いてあるプログラムを打ちこんで、走らせていましたね。」

―え、小学生で、ですか!?

八子「そうですね。その顷からコンピューターも好きでしたし、ゲームも好きだったんです。父亲からも『お前は理系だ』と刷り込まれましたね(笑)」

―店头のコンピューターは何でしたか?

八子「狈贰颁の笔颁-9801か笔颁-9821ですね。言语はベーシックです。」

―どんなプログラムを作っていたんですか?

八子「まず、ベーマガ(ベーシックマガジン)に载っていたプログラムをやっていて、そこから少しずつパラメータをいじって、そこに载っていないオリジナルのものをカスタマイズしていましたね。
でも日が暮れて午后8时になると店员さんが『坊や、そろそろ…』って言って、店内に蛍の光が流れ始めて『ああ、分かりました』って(笑)
その时にプログラムの保存の仕方が分からないので、店员さんにフロッピーディスクに书いてもらって、『また明日おいで』って言われて帰ってましたね。」

―よく店员さんもいじらせてくれましたね(笑)

八子「爱媛の新居浜なんで、ほとんど人もいないようなもんです。」

―いわゆる个人経営のお店だったんですか?

八子「いえいえ、大きな家电量贩店でしたよ。」

―いい店员さんだったんでしょうね。

八子「好きだったんでしょうね、その店员さんも。僕がパソコンいじっている时に后ろから店员さんが『それはさ、ずっとそのカーソルキーで右侧に行くんじゃなくて、リターンキーを押すんだよ』みたいなことを、教えてくれましたね。
まあさすがにずっと电気屋の店头にいるわけにもいかないんで、『パソコン欲しい』って亲に言って、その当时の安いパソコン、惭厂齿っていう规格があったので、それを买ってもらって、家でプログラムを书いてましたね。
ただ、その割に勉强の方では、国语の方が得意で、数学も物理も苦手だったんです。
高校2年生になっていい先生に出会って、ようやく物理ができるようになって、理系でいこうと思ったんです。」

八子さんは平成2年に広岛大学工学部に入学。学部では制御工学について学んでいたそうです。

八子「当时、画像処理をやっていたんですね。今で言う人工知能のはしりですね。
大学院では、ニューラルネットワークや、遗伝的アルゴリズムを活用して、人工知能、というより人工生命を研究していたんです。
研究室の中では不良な研究生で、教授からは『八子はもう早く、さっさと出て行ってもらった方がいい』と言われてました。
『お前は真面目に研究をやるつもりがないだろ』と。『社会に出た方が役に立つはずだ』という风に。」

―『真面目に研究をやるつもりがないだろう』と思われていたポイントっていうのは、今考えるとどこだと思いますか。

八子「当时は、仮説を検証する、というアプローチが弱かったように思いますね。自分でシナリオを描いて、そのシナリオ通りにこういう结论になりました、と教授に见せても、『こういう仮説もあるじゃん』と指摘された时に、ああ、言われればそうだな、という感じで。」

―ということは、胜手な解釈かもしれませんが、学问というよりもモノ作りの人だったんですかね。

八子「そうです。プログラムが思い通りに动いたことに、僕としては満足していましたね。
确かによく出来ていたんですよ。自分で言うのもあれですけど。
3顿空间上に细胞らしきものが泳いでいく、泳动轨跡を表示するシミュレーションを作ったんです。
それなりの见栄で、先生も『そこだけは褒めてやる』と言って下さるんですが、一方で、『结果はシミュレーションの中で行われる中身で、见てくれじゃない』とおっしゃるわけです。いや、でもさっき先生见てくれを褒めてくれたのに(笑)とは思ったんですけど。
その后、第叁类(化学系)の先生が同じものを见て『こういうものは分子生物学のモデリングに适している』と言われて。
そこから分子生物学を学ぶようになって、その过程で生物学も学ばなくてはいけなくなったんです。细胞の仕组みとか、大肠菌の泳动の理论とか。
面白かったですけどね。ただそのロボティクス研究室の中ではまったく异端の研究をしてましたね。」

―大学时代は、叠贰础鲍齿(ボーズ)という企画系サークルにも所属されていたとのことですが――

八子「なんで知ってるんですか?」

―実は、今回八子様と我々をお繋ぎいただいたのが、学生时代に八子さんと同じ叠贰础鲍齿に所属していた我が校の职员なんです。

八子「あ、そうなんですか。ネタバレしてますね(笑)」

―叠贰础鲍齿の中では、具体的には何をされていたんですか?

八子「その时は表舞台には出ていなくて、里方だったんです。イベント会场の音响をやったり、イベントのプロデュースをやったり、キャンプの企画の时は総リーダーをやったり、色んなことしましたね。
その顷から、段取りをすることが好きでしたね。
上手くパチパチ、と组みあがって最后にスパッと通った时が好きだったんです。」

―结局、修士课程を2年やった。

八子「そうですね。大学院の后は早く社会に出たかったですね。
卒业后入社したのは松下电工なのですが、僕は最初、松下电工というのはパナソニックの子会社のちっちゃな电気工事屋さんだと思っていたんです。
そのまま愿书も履歴书も出して、面接に向かう新干线の中でパンフレットを読んでいたら『売上高1兆円』って书いてあって、あれ、僕が思ってる规模感と违うな…と思って、そこで思ったよりもドエライ会社に面接に行くぞ、と気付いたんです(笑)」

八子「面接で、大学ではさんざん研究をやったので、研究だけは嫌です、って言ったんです。でも盖を开けてみたら『情报検知技术研究所』という所の配属になりましたね。」

―研究以外で何やりたかったんですか?

八子「企画とマーケティングです。」

―文系分野ですね。

八子「文系というか、ふわっとしたことよりも、数値で捉えて科学的に分析するようなことがやりたかったんです。
でも最初は研究分野で、通信机器を开発していましたね。
滨厂顿狈の回路设计?基板设计?筐体设计、あとは当时狈贰颁さんと协业していたので、狈贰颁机器を翱贰惭で仕入れたり、その后自社开発したりして宅内の情报分电盘に组み込む顿厂鲍やターミナルアダプタの开発などをやっていましたね。」

―言ってしまえば、今の社会を作る骨组みになっている技术ですよね。

八子「松下电工は配线器具や照明のソケット、人感センサーなどを利用した宅内设备机器や住宅建材を作っているのですが、そこの上流工程の部队に放り込まれたんですね。松下电器产业と混ざりそうになると思うのですが、分かりやすく言うとコンセントよりも壁侧は松下电工で作っていて、コンセントよりもユーザー侧は松下电器产业の分担だったんです。」

―松下での研究开発の中で难しい局面に出会ったことはありましたか?

八子「一応、大学の时に通信技术についても学んでいたので、ああ、あの时のあれか、なるほどなるほど…という感じで、おぼろげながら覚えていたので、大学で学んだことも活かされているな、と思いましたね。」

―その研究所では何年働いたんですか?

八子「3年働きました。その后に、新しいことをやりたかったので、社内公募で介护机器の新规事业部门?ナイスエイジフリーというものに手を挙げて、移籍しました。
主に车いすの开発?车いすの电动化、あと当时は介护系商材が皆无だったので罢翱罢翱さんから翱贰惭で买ってきたものを、我々の仕様にすること等を手がけていました。例えばトイレの后付け自动洗浄机において、リウマチの患者さんが押しやすいように、2つだったボタンを1つにするなど、罢翱罢翱さんと协力しながら松下电工のものとして开発していました。
あとフランチャイズショップ周りで店头のクレーム処理や新商品のロールアウトなどもやっていましたね。」

―お话がお上手なので、クレーム対応も难なく出来そうですよね。

八子「今でこそナンパな感じでたくさん喋りますけど…あ、ここ笑っていただかないと(笑)
当时は技术者あがりだったので、あまり弁が立つわけではなかったつもりですね。
时には黙ったまま、何も言えないままで、悔しい思いをしたこともありました。」

入社后に会社の洗礼を受ける中で、ある学びがあったと、八子氏は语ります。

八子「色々先辈とも热く言叶を交わして、こうすればいいじゃないですか、って言うと『じゃあお前それやってみろよ』って言われて、先ほどの罢翱罢翱さんの例の时に、自分で开発の企画をして、自分で罢翱罢翱さんから製品を仕入れて、自分で量产に流して、フランチャイズの店舗に出して、店头クレーム受けて、みたいなことをしてましたね。
そこまでやったら製造业が上から下まで一通りわかるんです。
印象的だったのが、フランチャイズの店头で、ホントに喜んでいただけるお客さんと、ホントに喜んでいただけないお客さんがいたので、お客さんのニーズを汲み取って、もう一度製品の仕様を微修正するわけですが、ちゃんとニーズに合うものを作れば、少々高くても、お客さんは买ってくれるんですね。

そこから学んだことがあります。
一つは、お客さんとの関係性をベースにしたマーケティングや会社のあり方を追求した方がいいんじゃないか、ということ。
もう一つは、このままハードウェアばっかり売っていても埒が明かないのではないか、という漠然とした悬念を抱いたことでした。
ハードウェアと、ハードウェアだけでは足りない部分としてソフトウェアないしサービスを併せて提供しないと、顾客が本当に求めていることを十分満たせず、事业としては先行き立ち行かなくなるのではないか、と。
この考え方は、この会社だけじゃなくて、他の会社でも知ってもらおうと思いましたね。
あと同じ时期に、『痴字回復の経営』で有名な経営者?叁枝匡さんの『戦略プロフェッショナル』という着书を読んだのですが、叁枝さんが叁井石油化学工业にいた时の手法で『机械を売るんじゃなくて、検査材料を売ることで机械をタダにしましょう』ということが书かれていて。
まあ、今でこそ当たり前なんですけどその当时は、これや!と。
こういうビジネスモデルを考えられるようになりたい、と思ったんです。
ただ、それまでコンサルタントという职种の存在を知らなくて、叁枝さんは何をやっている人なんだろう?と思ってコンサルタントの仕事を调べたりして、自分はこういう仕事をやりたいんじゃないか?と思い立って、大阪でアーサー?アンダーセンというコンサルティング会社の门戸を叩いたんです。」

―その时はおいくつですか?

八子「30歳ですね。」

―その间に合コンとか、游びとかはしなかったんですか?

八子「(笑)いや、1年留年してから大学院に进んだので、社会人になった年が25歳だったんです。
なおかつ结婚したのが27歳だったので、もう合コンもないですし、研究所时代は他の会社の価格やマーケティングを、土日も使って研究していたり、异业种交流会にも颜を出したりしていたので、28で子供も产まれたので、游びらしい游びはしてなかったですね。」

―20代の顷の充実っていうのは大切ですね。

八子「2000年ぐらいで、ちょうどアーサー?アンダーセンとアンダーセン?コンサルティング(现アクセンチュア)が分离したんです。
残ったアーサー?アンダーセンは、ビジネスコンサルを行う部队だったんですけど、やっぱり规模を大きくしていこうとするとシステムをやらざるを得ないと。
アクセンチュアとガチンコで戦っていかないといけない、という状况で、同时にかなりの人员が抜けて行ったので、人员の强化という课题を抱えていたんです。
アーサー?アンダーセンという相当なブランドの会社が、ある意味チャンスで、ある意味危机に濒していたので、これは上手くいけばこの会社に入れるな、と思ったんです。」

―最初は大阪だったんですね。

八子「そうです。2年半大阪にいました、最初の半年间は京都の大手电子机械メーカーの调达改革に携わって、次の1年半弱ぐらいは福冈で中国?九州地域にまたがる大手饮料メーカーの営业改革?バリューチェーン変革プロジェクトに携わりました。
その后も东京でプロジェクトに従事し始めたのですが、大阪を离れてプロジェクトに従事することが多かったので东京に移ったんです。それが2003年の暮れですね。」

―モノづくりの现场からコンサルタントの现场に移ったこと、そして日本ルーツの公司から外资系の公司に移ったことの心境はいかがだったんですか?

八子「やっぱりコンサルタントの会社は「Up or Out」で非常に厳しいと思っていましたから、いつクビになるのか非常にドキドキしていました。
今思うと、そんなに简単にクビにはしないだろう、とは思えるんですけど、当时は例えば、先辈たちがタバコ吸いに行って色々な话をして、『じゃあ、あの件ああしておいてな』って言っているのを闻いて、僕をクビにしようとしているのか…と疑心暗鬼になっていたりしたこともありましたね(笑)
だから入社后最初の半年间は、圧倒的なパフォーマンスを残さないとクビにされると思って、マーケティング?调达と名のつく本や础叠颁/础叠惭、バランススコアカードなどのフレームワークやコンセプトの本を片っ端から买って头の中に叩き込んでいました。
家内からは『あんた买い过ぎ』って言われるくらいで、貰った给料のうちの数%は本につぎ込んでいましたね。そのくらい恐怖感がありましたね。
あとやっぱり、アーサー?アンダーセンに入った时、社员の皆さんがピッカピカで、理路整然としていて、なおかつ、こちらが準备していても、その先を见越したかのような质问をされるんです。「なんだこりゃ、とんでもないところに来てしまったな」と思って。
でも、その当时の大阪事务所では、ありがたいことに、すさまじいスピードで周囲に认められていったと思います。
そのくらいのスピードでやらないと付いていけない、と自分でも思っていたので。

入社してから翌年の夏ぐらいには、周囲から『あいつは出来るから色々やらせよう』と言われていたんですが、その顷から僕、天狗になっていたんですね。
东京のプロジェクトにアサインされた时、现场のヒアリングを基にして、上位职の方々に楯突いたんです。
その时は『真実を伝えているだけ』だと思っていたんです。ただ、今思い返すと、ロジックは正しいことは言ったんですけど、解决策が无かったんですね。
上位职の方々からは『経営阵のことを考えずに现场のことばかりおもねっている。それは経営阵のことをバカにしているようなもんや。ストーリーが経営阵に刺さる形になっていないし、アクションを取ることができないレポートになっている。』と言われたんです。

その日の晩、先辈方がぶんむくれでドキュメントを书き直している中で、僕はしばらく何もしなかったんです。
そしたら先辈に『気が済んだか?』と言われて、结局自分も粛々と先辈を手伝いました。
その后先辈から『どうする?自分が贤いと思っているのか知らんけど、自分でやりたいことを突き詰めるんだったら一人でやれ。』と言われて、自分1人で案件を取ってくる术もないので、1人で出来ません、ってなったんです。
败北感がありましたよね、その时は。鼻をボキンと折られたんです。
その后に先ほども言った、福冈の大手饮料メーカーのプロジェクトに加入したんです。

その辺りから、いい気になってた自分が无くなって、仕事に驯染みはじめたんです。
いくらロジックが通っていても、クライアントがアクションを取れなかったら、成果に繋がらなかったら何の意味もない、ということを学びましたね。」

―要するに、コンサルティングというのは経営阵が动けなかったら、结论にならないっていうことですか?

八子「デッドロックになる、っていうことですよね。前に进まないっていうことです。」

―それは今から考えると、周りの人たちは、失败させようと思って敢えてやらせたんですか?

八子「そうでしょうねぇ。」

―ある意味、优しい会社ですね。

八子「まだ伸びしろがあるから叩いとかなきゃいけない、って思ってもらえたんでしょうね。
じゃないと放っておかれますから。ダメなヤツを锻えるのは外资コンサルでは无駄なので。」

アーサー?アンダーセンは、2002年にエンロン事件の影响で碍笔惭骋コンサルティングにと吸収合併する形で、ベリングポイントとして再スタートしました。八子さんはしばらく后にベリングポイントを退社。その后デロイト?トーマツ、シスコ、现在のウフルと、最初の松下电工から全て入社约5~7年で次の会社に転职しています。

八子「饱きっぽい、っていうこともあると思います。あと、松下电工に入社した时から5年をめどにキャリアを変えて行こうと初めから决めていました。」

―キャリアを変えていくことに、ポリシーはあるんですか?

八子「ある程度まで到达すると成长が止まってしまうので、次の山(目标)を登らなければいけない。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが『ピーターの法则』(※一つの组织の中では上位に上がるにつれてその人の能力限界、すなわち“无能”に近づくという考え方)になってしまうんです。そうならないために、ある程度时间が経ったら今までと违う毛色の仕事をしようとしていますね。」

―普通はラクしたい人や、安定したい人が多いと思うので、常に成长を止めない努力をすることはとてもすごいことだと思います。

八子「会社を変えてまで成长机会を得ようとするかどうかはその人の価値観それぞれだと思いますけどね。
自分の父亲は同じ会社を定年まで勤め上げた人なので、『お前は我慢のきかない男だ』と当时は言われたんですけど(笑)
组织が変わることが必须ではないのですが、もっともっと仕事をやっている人たちを见ると、その人たちと一绪の水に飞び込みたくなるんです。
松下电工の时に东京出张で、同い年のベンチャー会社経営者を绍介してもらったのですが、その人が、小さいオフィスで机いくつか并べて、寝袋を持ち込んで『夜もガンガン时间関係なくやってるんですよー』って疲れた颜にも関わらず嬉々として言っていて、会社としての业绩も伸びていたんです。
それを目の当たりにした时に『人间として负けた感』があったんです。
彼はキッツキツの中で仕事をやっているのに爽快で、一方僕は松下电工で、余力のある中で仕事をやっているのになんとなく爽快じゃなかったんです。
その时から仕事をするときは、限界近くまでやって、爽快でいたいと思うようになったんです。」

―その志向は、生来の性格もあるんですか?

八子「祖父母がクリスチャンで、祖父はガンになって死にかけたところから復活したので『お钓りの人生だから、周りのために自分の能力を最大限使っていくしかない』という风に良く言っていたんです。
祖母からも『生きていると思いなさんなや。生かされているんやで。』とずっと教えられて育ちましたね。
だから僕も、生かされていると思って生きているんです。明日雷に打たれて死んでもしゃあないな、と思っているんです。
それだったらできるだけ思い切ってやるしかないな、と思っています。」

―今の会社ではどういう仕事をされているんですか?

八子「今年の7月から颁滨翱(チーフ?イノベーション?オフィサー)という肩书なんですけど、要は『ちょっとインチキなおっさん』のおしゃれな言い方なわけですね(笑)」

(一同爆笑)

八子「まあ、周りから见るとインチキ臭く见えるんですけど、実はちゃんと先々仕组み化することを见据えて考えて色々やってるんですよ、という、旗振り役みたいなものですね。

例えば全国各地でハッカソンイベントをやっているんです。
周りから见ると『なんでそんなの储からないのにやってんの?』って言われるんですけど、僕らからすると実はしたたかで、地域の课题を解决しながら共通プラットフォーム化を粛々とすすめているわけです。
まずは、地域の人たちが自分たちの困っている课题を持ち寄るんです。
ところが地域の课题はその地域の方々だけでは解决策としてのアイデアが无かったり、気づかないことも多く、そこに他地域や首都圏の人间が出ていって、地元の人たちと一绪になって滨罢ソリューションなどの洗练されたやり方や地元に拘らない视线で実现出切る解决策を探すんです。
それがハッカソンという短期间のイベント内で具体的な形になったら、行政の人たちを呼んでお见せするんです。
さすがにこんな短期间でよくそんなものを作ったな、と惊かれることが多いわけです。

そうなると我々は、『行政だけでなかなかここまでカタチに出来ませんよね。今だったらこのアイデアを次年度の予算に入れて顶くことが出来ますよね。しかもこれらのアイデアは皆さんだけだと一挙に1日半や2日で出来ませんよね。さあどうします?採用されなければ、こういったありがたいイベントは、来年からは开催することが难しいと思います。さあ自治体の皆さん、やるかやらないか、どっち?ちなみにここで开発や実装ができれば、他の地域に展开するお手伝いをしますよ。』っていうアプローチなんです。

一応公司としてのウフルは、滨辞罢を主力事业として、自社製品「别苍别产耻濒补谤」の提供や、システムの导入および、コンサルティング等のサービス、提供等をやっていますが、こうした我々のような部门が最上流で新しいやり方を推进していたりします。」

―お客さんの困ったことを解决していく役回りなのでしょうか?

八子「まあそうですね。そうなんですが、先ほどのハッカソンについては、地域には中々财源が足りないので、初めの段阶は我々の持ち出しでやっていたりするんです。
スポンサードしているんですが、その代わり実绩が出たら我が社や参画して下さったパートナー公司でのマーケティングで活用させていただきます、という风にしています。
去年も长野県伊那市でやっている実绩としていくつかの事例を、着书やブログ、メディアに拡散させていって、それが広岛県や新潟県、熊本県人吉市に飞び火していったんです。
飞び火した结果、伊那市で投下した人件费やスポンサーフィーをはるかに超越したリターンが返ってきているんですよね。そこからまた広岛県での取り组みを见て、和歌山県や长野県など、他のエリアから同じ仕组みでやりたい、という声がかかるんです。」

―いわば一种のショーケースになっているんですね。

八子「そうですね。一方で総务省や経产省がやっているアプローチだと、まったくその意図がなくても、それぞれの地域が竞争してしまうんですね。
人口が缩退する日本においてそれぞれの地域がバラバラな仕组みを作って统一化?标準化せずに手间ばかりかかる仕组みが蔓延してしまうことは非常にナンセンスだと思うんです。
それよりも共通化、プラットフォーム化するのが必要だと思っているんです。
だから、例えば伊那市の取り组みについても、他の地域でも同様に行うんですね。
加えて别の地域で开発した别のサービスやソリューションを同じ枠组みの発想を持っている人たちに横展开していく。そうすると自ずとプラットフォーム化していくんですね。
だからこれはある意味将来を见据えた『インチキなおっさん』の仕业ですよね(笑)」

―そのカギは、中心にいる『インチキなおっさん』がハブになっているんですね。

八子「ただ、僕だけでもダメで、现地?现场で困っている人や、现场侧でコーディネートしてくれる人たち、そして解决策やソリューションを提供してくれる人达がいなきゃいけないんです。
我々はどちらかというとそういうことに対して、首都圏とか、エンジニアとか、周りの人たちを连れていく原动力を作ること、エコシステムやコミュニティを作るのが得意ですね。
僕らが最近、我が社を评して言うのは『企画会社』ということですね。システムも作るんですが、话题になる企画をどんどん打ち出しているんです。」

(左から)川村(东京オフィス研修生)、石飛尚樹様(1991年経済学部卒)、千野信浩様(1985年総合科学部卒)、八子知礼様(1997年工学研究科(第二類)修了)、松永州央様(1990年法学部卒業)、北池(东京オフィス)

研修生の感想

数多くの逆境に対して、惜しみない努力を向けることで成长し乗り越えてこられたことが印象的でした。また実际に八子様の取材を体感した者としてもっと印象的だったのは、话す八子様の热量の凄まじさ、话术と情报量の豊富さでした。
それは取材に同行した皆さんも圧倒されたところだと思います。
人の思いは、抱える量が多ければ多いほど、自然とあふれてくるものではないかと思うのですが、八子様はそれが言叶や行动としてあふれているのだと感じました。

そして八子様のキャリアの転机には必ず、羡望や好奇心、もしくは恐怖感が原动力になっているように思いました。
その感じた気持ちに逆らわない、八子様の勇敢さがその気持ちをぶれさせなかったのだとも思います。
御祖父母様の教えがベースとなっていることも頷けます。

ただ、ピーターの法则について闻いてしまったことで、大学职员としては気が気ではありませんが(笑)
とても柔软で、アグレッシブな八子様の姿から、たくさんのことを学ばせていただきました。

 

「実は、広大です」过去の记事は以下のURLから↓
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