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访问日
2019年10月11日
センパイ
金岛 春夫(カネシマ ハルオ)氏
1993年工学部卒业
株式会社クリーンエナジーマネジメント
株式会社クリーンエナジーマネジメント 代表取缔役
金岛春夫 氏
(1993年工学部卒业)
访问记
-ご出身はどちらですか?
金岛:広岛市中区です。基町高校の出身で、実家は学校のすぐ近くです。今も母亲が「おこのみ金岛」というお好み焼き屋を営んでいます。
-では、お好み焼きの味にはうるさいですね。
金岛:そうですね。当时はお好み焼きにお金を払ったことがなかったです(笑)。
-広岛にいらっしゃったので、広岛大学への进学はイメージされていたところでしょうか。
金岛:自然な流れでしたね。前期と后期は别の大学を受ける人がほとんどだと思いますが、広大以外に行くつもりがありませんでしたので、両方広大を受けました。大学では工学部第四类の土木で环境工学を専攻していました。1年半东千田に自転车通学、2年生の后半から西条で一人暮らしをしました。
-当时の四类は、建筑、土木、船舶、の3つのコースがあって、2年生の时に、希望と成绩でコースが分かれていましたよね。
金岛:建筑がイギリス人で、土木が日本人、船舶がメキシコ人(笑)。それぐらい雰囲気が违いました。土木はベタなやつが多くて、建筑はシュッとしてスマート。(取材に同席している)兵藤さんは船舶だから阳気なメキシコ人(笑)。私はまさしく普通な日本人という感じで、土木に进みました。
-千田时代にはどんな思い出がありますか。
金岛:「叠贰础鲍齿(ボウズ)」という企画サークルを立ち上げました。メンバーは男10人。1年生の夏休みに『竜马がゆく』(着:司马辽太郎)を読み切って、「よし、なんかやろう!」とつくったんです。
-『竜马がゆく』主人公の坂本竜马は、明治维新で日本の夜明けを目指したわけですが、金岛さんは何を目指されたのでしょうか。
金岛:当时、大学の中にエンターテインメントが少なかったので、大学祭のステージで约2时间、コントやクイズなどのショーをやりました。例えば、1人がカレーを口に入れて、二人で抱き合ってその场でぐるぐる回って、ご饭の上にべーっと吐いて「人间电子レンジ」とか。
サークル対抗早食い竞争もやりましたね。生の板こんにゃくを食べる早さを竞うんです。すっごい臭いんですよ、あれ。でも安いし、ビジュアル的にも分かりやすいんです。人间焼肉もやったよね。
-(爆笑)。集まった人からは、评判はどうでしたか。
金岛:めったにないことですが、森戸道路がいっぱいになりました。结构、楽しかったですよ(笑)。
すごくくだらないんですけど、そういうエンターテインメント性のあるものがなかったんです。西条に行ってからも、それから东千田に残ったメンバーでも継続してやりました。サークル自体は二十年ほど続きました。
-すごいですね。サークル名の「叠贰础鲍齿(ボウズ)」はどういう意味ですか。
金岛:もう一人の创设者が、フランス语で「伊达男」という意味でつけました。でも何年か后にフランス语の先生から「この缀りはフランス语では「ボウズ」ではなくて「ボウ」だと」指摘されたんですけどね(笑)。
- 一同爆笑。
金岛:オリキャンの小型版のような形で、キャンプもやりましたね。东京の大学だとスポンサーをつけてやるのですが、我々は、自分たちで出店した収益で运営していました。多い时には100人近くのメンバーがいましたね。
-となると、学生时代の思い出はサークル中心になるでしょうか。
金岛:そうですね。サークルはいい思い出です。
工学部でしたので、卒论にも力を入れてやりました。卒论の题名は「开水路急拡部における剥离流の叁次元测定」です。当时は、パソコンで流体のベクトルを解析することが可能になったばかりでした。工学部の水路装置に、アクリル板で急に広がる箇所を作り、上流から白い粉の粒子を流して、真っ暗な中をカメラとストロボで撮影し、叁次元のデータをマッキントッシュに取り込んでベクトル化する、という実験をやっていました。当时は相当时间がかかる作业でした。
クリスマスイブの夜に、研究室で一人きりで実験した思い出もあります。
-研究もしっかりされていたのですね。就职活动はどうでしたか。
金岛:大きなものを作りたい、という意味で土木志望でしたので、物事やプロジェクトを作る「开発屋」の仕事に进みたいと思っていました。ところが、指导教官は世间知らずだったのか、「○○不动产とか○○不动产は、开発とは违いそうだなあ。お、开発屋があったぞ」と。それで「西洋环境开発」に入社したんです。
-恩师に勧められて入社されたのですね。
金岛:指导教官が就职担当でしたので、公司の方が挨拶にこられたのです。その中で唯一「开発」という名前がついていた、ということでした。
-社名だけで决められてしまったんですね(笑)。
金岛:ちょうどその顷、西洋环境开発が宇品のマリーナでホテル开発などをやっていました。それがおもしろそうだなと思ったのも动机です。入ってみたら不动产屋だったのですが(笑)。
-ご自身で何社か受けられたというご経験はなかったのですね。
金岛:はい、なかったですね。就职に际しては、企画をやりたいと考えていました。その気持ちは今の仕事内容にもつながっていて、全く変わっていません。
大学も広岛大学しか受けていないし、就职活动も1社のみ。自分をいろんな秤にかけたくないんです。性格的にも、二股や叁股をかけるということが得意ではありません。
それから、新しいことにチャレンジすることが好きですね。分からない时の混沌が好きなんです。用语の违いを整理したり、ルールを决めたり、みなしの目标を设定したり、いろいろなことを整理するのが好きです。高级翻訳家、とでも言いますか(笑)。これがやりたい、とか、できそうだ、というものを実现させるのが好きですね。
-西洋环境开発では、どのようなお仕事をされたのでしょうか。
金岛:マンション用地の购入や戸建ての用地开発に従事しました。なんでもやりたがりですのでおもしろかったですね。いい経験になったと思います。
-その后、転职されたのはなぜですか。
金岛:入社して5年目に、マンション用地の買い付けを取り付けていたのですが、会社から「買い付けるお金がないから、お前、行って謝ってこい。」と言われ、案の定相手から大激怒されました。それが1998年ですが、1999年に特別清算手続き(※) がとられていますので、会社としてはそういう時期でした。
(※)清算中の株式会社に清算の遂行に着しい支障をきたす事情がある场合または债务超过の疑いがある场合に,裁判所の监督下において行われる清算手続のこと。
用地の买い付けができないので、営业に行け、と言われました。戸建て贩売のノルマを达成したら帰してもらう约束で営业に行き、无事に达成できたので帰してもらったら、今度は会社にお金がない。これは自分が顽张ってどうなる问题でもないということで、転职を决意しました。
当时は不动产の流动化、証券化のはしりの时期でしたので、これからはその分野だと思い、当时のリクルートビルマネジメント(现ザイマックス)に中途入社第1号として採用されました。
-会社の规模はどれぐらいでしたか。
金岛:社员数が76名で、そのうち73名が宅建を保有していました。普通は5人に1人持っている程度ですので、すごい保有率です。リクルートのビル事业部が独立したチームでしたが、入社してみると、东大京大早稲田庆応ばかりで、高学歴の人が多かったですね。その中で、不动产流动化の波に乗りました。现在に至る人间関係は、全てそこで培われましたね。
-西洋环境开発の大阪勤务から転职される时に、东京に行こうと思われたのでしょうか。
金岛:大阪でもよかったのですが、当时そういう仕事が东京にしかなかったのです。
-当时、ご家族はいらっしゃいましたか。
金岛:独身でしたが、転职活动をする时に、大阪の彼女と别れました。彼女と游んでいるより、次の时代のために、と。
-そういえば、今日はご结婚记念日というお话でしたね。
金岛:いやー、よく覚えていてくださって!夕方アラームが鸣るようにしておかないと。
- 一同爆笑。でも、会社が危机的な状况の时には心の支えが欲しい気がしますが、なぜ会社だけでなく彼女もエンドしてしまったのですか。
金岛:自分が28才の顷に会社がつぶれるというのは、非常にショックな出来事でした。もう一度人生プランを立て直す必要があるという时に、彼女の存在が必要ないと感じてしまったんです。まだ若かったので、心が狭かったのでしょうね。
-确かに、心理的にのしかかるものがあったのでしょうね。転职先としてザイマックスを选択されたのはなぜですか。
金岛:西洋环境开発时代の会社の后辈が、先に现リクルートスタッフィングに転职していました。彼は公司から求人をもらってくる仕事をしていたのですが、ある时电话がかかってきて、「春ちゃん、いいところを见つけたぞ。俺が一次面接を受けてきて、いい会社だったから、お前入社しろ。」と勧められたのが、リクルートビルマネジメント(现ザイマックス)でした。
-では、そのご友人が恩人ということになりますね。
金岛:いやあ、恩人でもないですけどね(笑)。淀川の新大阪侧から梅田を见ながら、やりたいことを彼にずっと话していたので、受けられるレベルまで达したんです(笑)。不动产の流动化が始まったのが2003年でしたので、当时は同じようなことをやっている会社がほとんどありませんでしたが、彼が僕にぴったりの仕事を见つけてきてくれたのです。
-ザイマックス时代は、どういうお仕事をされていましたか。
金岛:最初はサブリースの営业でした。1999年に某生命保険会社が破たん、当时「ハゲタカファンド」という言叶がはやりましたが、まさしくそのハゲタカの外资系証券会社の下请けで、不动产査定をする仕事でした。先辈と僕と二人で、破たんした生命保険会社の、100近くあるビルの査定を担当していました。全社挙げての业务で、3か月ぐらい休みなく働きました。そういう日々でしたが、毎日おもしろかったですね。
-ハードなお仕事のように感じますが、楽しくやられたのですね。転职されて、ザイマックスはどういう印象でしたか。
金岛:社长も役职で呼ばず「さん」づけです。フレンドリーで风通しがよく、毎日が楽しかったです。ザイマックスには9年间在籍していました。西洋环境开発は5年目を超えたら退职金が増え、ザイマックスは10年目に入ると特别ボーナスが出たのですが、それを全部もらえていないんです(笑)。
-有意义だったザイマックスをなぜ辞められたのですか。
金岛:当时、ザイマックスがビルマネジメント会社を买収しました。私は不动产潮流の上流、金融に近いところとしてアセットマネジメントにいきたかったのですが、金融よりも物に近いメンテナンス会社を买収したので、一気に社员数が増え、営业を担当することになりました。
それで、やりたいことと违うと感じて、久々に不动产开発をしたいなあと思い、ラサール不动产投资顾问に転职しました。
-そちらではどのような业务をされたのですか。
金岛:デベロップ(开発)とデスポジション(売却)です。ビルや物流仓库など、投资金额の大きいものを扱っていましたが、开発时点でのゼネコンなどとの调整や、不动产保有会社に売却する时の交渉を担当し、4年ほど在籍しました。
-リーマンショックの影响は受けなかったのでしょうか。
金岛:転职の时に、リーマンショックが起きることは大体わかっていたので、础级戦犯扱いをされるであろう「购入担当」として入社してほしいと言われたのを断りました。あの时は、よく先が予见できたなあと思いますね(笑)。
-その辺の嗅覚はするどいですね。そして、いよいよ创业されるのですね。
金岛:リーマンショックの后、案の定购入予定物件のキャンセルが続いて、业务内容もキャンセル交渉が主になり、やりたかった开発がなかなかできませんでした。
そんな折、2008年に猛暑が袭ってきました。巨大な物流仓库をたくさん保有していたのですが、断热材を入れていない、鉄板2枚のダブルスキンの屋根なので、最上阶が非常に暑く、4阶のテナントからクレームがきました。现场対応をする立场でしたので、実际に屋根の上にあがってみましたが、卵を割って落とすと目玉焼きになりそうなぐらい暑いんです。
いろいろ研究した结果、太阳光発电なら完全に影になるのでよさそうだ、ということがわかりました。おまけに金物で挟むだけだから土台がいらないので、施工荷重ぐらいでいけるな、など计算して、本国のアメリカに上申しました。「それはいいじゃないか、グリーンロジスティックスだ。サステナブルだね。」と、すごくいい反応でした。
実际に竣工して运転してみると、计画値の150%ぐらい発电していて、売却益が普通に出ることが想定されました。「これはいいな」と。それが、电力の全量买い取りが始まると言われていた时期でした。
-新しいビジネスを评価してくれたのは、当时在籍されていた会社の本国侧とのことですが、そこで事业をやろうとは思わなかったのですか。
金岛:日本には発电インフラに投资するクライテリア(指标)がありませんでした。ファンドを作るには3年ぐらいかかるので、それを待っているわけにはいきませんでした。ラサール不动产投资顾问の投资额は规模が大きいのですが、太阳光発电ではそこまでの规模にならない、という事情もありました。
-投资すると利回りがいい、ということに着目されたのですね。
金岛:それまで投资対象がオフィスビルや商业施设、仓库だったものが、発电所になった、というだけで、やっていることは全く変わりないです。
-创业者として、また経営者として経営するというのは、これまでの会社员生活と比べていかがでしたか。
金岛:资金繰りを経験したことがありませんでしたので、そこがしんどかったですね。1つ1つの业务委託报酬が大きく、収益を得られるまでの间の资金繰りを埋められないところが大変でした。
一番厳しかったのは创业时です。电力の全量买い取り制度が2011年に始まると言われていたのが、2012年6月まで伸びてしまいました。お金が入ってこない状况に陥り、とても困りました。その时期は、3人の従业员には给料を払い、自分は数か月无给でなんとか凌ぎました。
-事业がスタートしてからは、どのようなところで苦労されましたか。
金岛:许认可事业なので、制度の変更に対する対応に苦労しましたね。
-今の事业内容は、太阳光発电事业を中心に、マネジメントをされているということですか。
金岛:そうです。その开発代行や许认可の取得なども行っています。太阳光発电以外で力を入れているのはバイオディーゼル発电です。
-今后の展开はどのようにお考えですか。
金岛:贵滨罢(※1)が来年で终了し、これまで全量买い取りだったものが最低価格保証、つまり国が资金面の支援をすることになります。今后は、搁贰100(※2)を宣言している公司に电源を提供することを目指しています。
(※1)太阳光発电など再生可能エネルギーで作られた电力を、电力会社が一定価格で20年间の买取期间で买いとることを国が约束する制度。
(※2)事业运営を100%再生可能エネルギーで调达することを目标に掲げる公司が加盟するイニシアチブ。
-広大生へのメッセージをお愿いします。
金岛:东京での生活は、ビジネス上で広大卒业生に会う机会がほとんどなかったので、孤独な感じがありました。たまたま広大卒同士なことが分かって、ビジネスが成立したこともありますけどね。
私自身は自分で船をこぎたいタイプでしたので、自分でやりたいことをやってきました。
学生には、学生生活を思い切り楽しくすごしてほしいと思いますね。
英语は勉强しておいた方がいいと思いますよ。先日もある国の大使と话す机会があったのですが、英语ができないとやっぱりしんどいですね。时间がある学生の时にやっておくといいと思います!
(左から)松永州央氏(1990年法学部卒業)、金島春夫氏(1993年工学部卒业)
兵藤守氏(1997年工学研究科修了)、長谷川(东京オフィス所長)