実のところを白状すれば、私は学生时代には落ちこぼれでした。というのも「なぜ歴史を学ぶのか?」という根本的な问题に答えが见いだせず、勉强するモチベーションが涌いてこなかったからです。そのため、当时社会的に问题になっていた事象に関する本ばかり読みあさっていました。「歴史ばかり见ていても、现代社会に起こっているこうした问题には寄与できないではないか…」という焦りばかりが头にこびりついていたのです。
遅ればせながら本気で歴史を学んでみたいと思うようになったのは、学部3年生の时でした。坂本赏叁先生の律令国家から摂関时代に至る讲义のなかで、教科书などには决して出てこないような无数?无名の人々が法や制度の枠からはみ出して动いていく様、それが新しい社会の仕组みを作り出し、政治が后追いで少しずつ认めていかざるを得ない时代の転换が衝撃的に展开されました。「歴史が动くとはこういうことなのか?!」そう感じた时に、こういう见方から近代の日本社会を考えて见たい!と本気で勉强する気になったのです。気付いた时には、クラスメートと学力の开きはあまりに大きく、まもなく迎えた卒论も散々なものでした。このままではどうにもならないと、大学院へ进学してようやく歴史の学びが本格的に始まったのです。
今から思えば「焦り」を口実にサボっていた面もありますが、その回り道がなければ、たぶん研究の道に进むこともなかったかなと思います。
自分自身の研究は、明治~大正期に农业政策の犠牲と捉えられていた中小の农民が、自分达の生活を少しでもよくするために自発的に技术の改善に取り组む姿をえぐり出そうと史料と格闘してきました。彼ら中小农民が自ら文字史料を残すことはないため、彼らを愚民视する侧の记録に记されるちょっとした表现や愚民観の里侧を読み解いて、彼らの主体性を検証していったのです。学界の常识とは相容れない歴史像なので、未だ公认されたとは言えないのですが、たぶん50年后には认められているでしょう。

讲义の风景
ところで、彼らの自主性?主体性を追求するというのは、他ならぬ自分自身の主体性を问うプロセスでもありました。自分自身どう歴史と向き合っているのか、现代社会とどう向き合っているのか、何を以て主体的とするのか…。先行研究と格闘し、文字史料の世界に潜り込み、一寸先すら见えない状况のなかで、改めて自分の原点を见つめ直し、自身の価値観を研ぎ直すことが研究のプロセスそのものでした。そして、今「本当に主体的に生きているのか?」という问いに直面し、ムラ社会の歴史的な问题のなかに课题を模索している最中です。
落ちこぼれ学生の気持ちは実によくわかりますので、少々専门的なことがわからなくても理解できなくても、そこは别段ノープロブレムです。しかし「自分がどう歴史と向き合おうとしているのか、今この社会で歴史を学んでいることの意味をどう捉えようとしているか」は、常に学生に考えるよう力説しています。
とくに现在のように歴史を学ぶことを軽视する社会になればなるほど、その问いかけは重要な意味を持つでしょう。自らの研究対象と深く向き合えば、どうしても自分自身への问いが不可避になってきます。それこそ本物の学问だと思います。研究の道に进むわけでなくとも、そういう学问を学生时代に経験できるというのは、一生の财产です。「学问は人格を陶冶する」というのは、决して虚言ではないと思います。
