1970年前后、东京ではなく北海道に住んでいた私のような少年も时代の波に揉まれていました。东大安田讲堂事件、叁岛由纪夫自决事件、日航よど号事件、连合赤军あさま山荘事件、どれもこれもテレビにかじり付いて见ていました。とくにあさま山荘事件。これさえなければ、どこか名のある一期校にひっかかった筈です。でも、面白いもので、もしそうだったら、今の私は存在しなかったでしょう。
弘前で出会った沼田哲先生は强烈な个性の持ち主でした。当时、东大闘争を体験した院生で、复雑な思いを抱きながら、地方大学へ教员として散って行った人も多かったと闻いています。沼田先生もそのお一人。研究室にマイルス?デイビスのポスターを贴り、讲义で27テーゼや32テーゼを语りながら、専门は幕末国学思想?明治保守思想。そのギャップに惊きましたが、保守主义の歴史的意味にいち早く着目されていたんですね。私は沼田先生のカッコ良さに魅かれ、歴史研究者の道を志すことにしました。
立命馆の岩井忠熊先生の门を叩いたのは、先生の『明治国家主义思想史研究』に魅かれて、大同団结运动期の国家主义思想を勉强しようと思ったからです。岩井先生は立命馆闘争で丸二年间研究がストップした后にこの本を出されました。勇んで上洛したものの、岩井先生は思想史研究から天皇制研究へとテーマをシフトされていました。そこで、别の学部で大同団结运动を研究されていた藤井松一先生を绍介していただきました。藤井先生は恩人です。ドクター试験に落ち、世界没落感の中で途方に暮れていた私は、もう研究者の道をあきらめようと思い、帰郷直前、先生のもとに挨拶に伺いました。実はなんだかんだ言ってもまだ后ろ髪を引かれていたので、駄目を押してもらおうと思っていたのです。すると先生は、ご自身の长く辛かった学究の道を淡々と振り返りながら、「いまでも、これでよかったか悩むことがある」と话されたのです。すでに学界の重镇であった先生の、悩みながら前进せよ、との言叶が私の背中を押してくれました。
藤井先生のアドバイスもあって、北大の永井秀夫先生のもとに向かいました。生まれ故郷という振り出しで私がつかんだのは、中央史ではなく地方史、全国史ではなく地域史の重要性です。今、私が东北という周辺地域から歴史像を再描写しようとしているのは、北大时代に永井先生や田中彰先生、井上胜生先生に育ててもらったセンスだと思います。

Tohoku
22年間過ごした新潟県上越市での生活、また主な調査先である東北地方の風景、さらに日本史研究者としてはけっこう行っていると思う海外の研究機関での体験。それらを通じて、私は、不在としての「日本」、実在としての地域、ということに確信を持っています。つまり、「日本」は存在しない、ということです。存在しているのはさまざまな地域でしかありません。それらの総和が「日本」になるわけではありません。「日本」とはそれらとは別物の、せいぜいある特定の地域や人間集団を特権化?神聖化させているイデオロギー、カラクリです。結論を申しましょう。人文学―じんぶんがく―じぶんがく―自分学。人文学とは自分の存在を考え切る学問です。あるいは、人文学―ジンモンガク―ジモンガク―自問学。自問するのもあなた自身です。
见返りオヤジ