幸运なことに、私は、自分の好きなこと、つまり、好きな本を読むことができる仕事に就いています。そもそも、そのために文学を志したのですが、当初は、自分の选択に后ろめたい気持ちもありました。というのも、私の周りには、社会正义に燃え、困っている人たちのために活动をしている人たちや、一流公司に就职し、华々しく社会へ飞び立ってゆく人たちで一杯だったからです。そんなすごい人たちを前に、自分にできることなど考えても无駄で、结局、「これだけ世のため人のためになりそうな人がいるのだから、一人くらい、役に立たないことをやってもいいよね。」という屁理屈をこねて、大学院で学ぶことにしたのでした。
案の定、お世间様からは、「文学などやって何になる。」「もっと地道な仕事に就いた方がいいんじゃない?」というありがたいご意见をいただいたこともありました。そんなときは考え込んだものですが、その时の私の暗い気分など、今考えればごく些细なものでした。というのも、本好きには、もっとつらい时代があったからです。
身近なところでは今から五〇年ほど前の日本。宫崎骏监督は、DVD『ジブリの本棚』の中で、监督の学生时代(一九六〇年代)、本ばかり読んでいる奴は本に梦中になって働こうとしなくなる、と言う大人たち、さらに、読んでいい本と悪い本という区别があって、小説などは娯楽だからろくでもない、と言う大人たちが结构いたと话しています。

『モンテ?クリスト伯』の舞台?イフ岛
また、小説好きにはもっと厳しい时代もありました。国はかわりますが、十九世纪のフランス。逆説的ですが、十九世纪はフランス文学にとって华々しい时代です。ではなぜ小説を読むことはいけなかったのでしょうか。その理由として、格调高い文学が生み出される一方で、大众の気をそそる小説が量产されていたことが挙げられます。そういった大众小説の中には、今日まで読み継がれ、映画化もされて変わらぬ人気を获得し続けているデュマの『叁銃士』や『モンテ?クリスト伯』、ルルーの『オペラ座の怪人』といった名作もありますが、こういった小説は、同时代の知识人から、「产业文学」「民众のアヘン」と手酷く非难されました。こんな物语に、美的価値や深い思想などない、あれはオンナコドモ向けだというわけです。ではオンナコドモは许されたのか。そうでもありません。この时代の小説には、身分の高い妇人が「うちの娘は、小説などまったく読みませんのよ。」と语る场面がしばしば登场しますが、これは、うちの娘は小説なんか読む不良ではありません、と娘の道徳観の确かさを自慢する言叶なのです。
まじめな読み物ですら、この时代には、女性が読むことに対しては偏见があったようです。バルザックの『ゴプセック』には、夫の死后の遗产の行方が気になり、法律书を読み渔る女性がおぞましい姿で描かれていますし、ゾラの『金』では、聡明なカロリン夫人が、投机师サッカールが目论む银行の设立计画の合法性についてこの男を问いただすと、逆に「ナポレオン法典を読んだのか。」と闻かれて颜を赤らめてしまいます。夫人は法典を読んでいたのですが、赤くなったのは、この质问が、オンナダテラニ法律など読んでという非难で、そのために耻じ入ってしまったからなのです。
読书は、それゆえ、必ずしも世间からよく思われてきたわけではなかったのですが、そう考えると、私が今いる文学部は、読书に価値を置く稀な环境と言えるでしょう。私にとって、読书は何よりの娯楽であり、支えであり、逃げ场でもある、不可欠なものであるだけに、読书が主な仕事でもあるのはこの上ない幸せなのですが、そう思うのは、私だけではないでしょう。読书が好きなあなたには、好きな本と共に过ごせる文学部は、きっと居心地がよい场所になると思います。世间の目など気にせず、长い人生のせめて四年间、本を読んで过ごしてみてはいかがですか。

ゾラとその亲友で画家のセザンヌが学んだブルボン中学校(现ミニェ中学校)。
小説家で映画监督としても知られるマルセル?パニョルも一时期ここで復唱教师をした。