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おでんが修论でなくてよかったな【友泽和夫】

 私は1986年の春に広岛大学大学院文学研究科博士课程前期に进学し地理学の院生となりました。当时の大学院生は人数も多い上に、高いレベルで研究に迈进していたと思います。たとえば、先辈方は多数の书籍を购入?読破されており、生协の利用班では谁が最も多くの本を购入したか毎月竞っている状况でした。中には院生室の机の上に本を山积みにし、何かの拍子にそれを崩壊させて、本の「地すべり」灾害を频発させる人すらいました。私もそうした先辈の薫陶をうけて、それなりに専门书を购入して読みました。また、当时の指导教官の方针は、博士课程前期の间に学会誌に1本、博士课程后期の3年间で2本掲载というものでした。それを反映して诸先辈は全国学会誌によく投稿しており、生产性の高さでは全国有数との评価を得ていました。确かにこの程度书いていれば大学の助手クラスへの就职の见通しが立った时代でした。私も卒业论文は前期1年の间に学会誌に掲载することができました。

 修士论文では、1980年代に进展していた地方の工业化を対象とし、その意味を地域労働市场と関係させて捉えようとしました。最后まで苦戦を强いられた卒论の反省に立って、1年目の正月明けには基本的な构想?计画は确定していたと思います。フィールドは地方の工业化の典型と言える中?南九州としました。调査方法は、仮説を立てて、それを现地で収集した情报?データ収集と分析により実証しようというスタイルをとりました。现地调査は4回、计50日间にわたり実施し、中?南九州に立地する38工场を访问调査しました。この间、実に多くの経営者や管理职の方から、贵重な话をうかがうことができました。现场の情报が最先端であり、その情报の分析?考察を基に、学界の研究动向においても最先端に立とうというのが私の基本的な研究姿势の1つですが、それはこの修士论文の调査を通じて形成されたものです。また、修士论文の调査中には、「このように论文を书けばよい」というような天の启示といえば大げさですが、インスピレーションを感じたこともありました。これはフィールドワークの醍醐味と言えるでしょう。

 このように书くと、まじめに研究ばかりをしていた様に思われてしまいますが、そうでもありません。当时流行っていたのはソフトボールです。文学部内の行事にも教室対抗の文学部ソフトボール大会というのがあり、地理からも毎回2?3チームを出していました。うち1つは院生チームで、夕方などに軽い练习をして试合に临んでいました。他の教室にも広岛东洋史カープとか印哲バッファローズ、西哲ライオンズなど、强そうな名前のチームがありましたが、我々は地理勉强家チームという名前で出场し、私が前期2年の大会では优胜しました。ただ、それをピークに主力の高齢化による体力低下や、昼食の际景気づけにビールを饮んだまではよかったものの、午后からの试合では足が动かずエラー続出で、あえなく败退するようになりました。

 さて、修士论文は2年目の12月下旬から清书に入りました。当时の地理学教室では、この季节に広岛市街地夜间徒歩一周という行事を开催していました。私が住んでいたアパートは、そのルート上に立地しており、毎回参加者が休憩に立ち寄る场所となっていました。その年も案の定十数名の后辈が私への激励を兼ねてやってきました。それ自体は嬉しいことなのですが、当面の食料としてつくっておいたおでんを、彼らにあっという间に食べられてしまいました。さらに彼らは、おでん汁(自家特製)も一滴残らず饮み干して嵐のように去っていきました。そのため、おでんを一からつくり直す羽目になりました。このことを后に某先辈に话すと、「おでんが修论でなくてよかったな」と言われました。このように文学部にあっては、やや体育会系のディープな人间环境の中で修士论文を无事に书き上げて、1988年に博士课程后期に进学しました。

 


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