考古学をやっているとしばしば、「子供のころから考古学が好きだったんでしょ?」と言われます。豪华な宝物、手に汗握る冒険、壮大な歴史ミステリー(そして海に沉んだ超古代文明)など、子供心をくすぐる派手な印象が考古学にはつきまといます。かくいう私も子供のころ、罢叠厂の「世界ふ〇ぎ発见!」で见たエジプトのピラミッド、その荘厳な姿に心を夺われていました。ただしその兴味は小学校までしか続かず、その后は特に热を上げることもないまま大学へと入学します。漠然と「考古学」というものに兴味はあったため、结果的に现在まで考古学を勉强することとなっていますが、もし高校などで别の分野に兴味を持てば、容易にそちらへ进んでいたことでしょう。
1回生の时に各専修の入门授业があり(専修配属は2回生からでした)、その中で夏休みに行う発掘调査の参加者募集がありました。対象は大学の近くの古坟。とりあえず参加してみようと当日现地に向かったところ、着いたのは住宅街の一角にある普通の公园でした。古坟らしきものはどこにも见当たらず、かろうじて工事用のフェンスがあることで、なにか作业をしているんだなと认识することができました。最初に先生が现地の様子を一通り案内してくれるというのですが、公园の中にある游歩道を歩きながら、「あっちが前方部。こっちがくびれ部で…」と藪を指さしているだけ。当时の私には、かくれんぼに适した木阴にしか见えませんでした。授业で考古学の基础を勉强していたとはいえ、古坟を写真くらいでしか见たことがなかった自分には、坟丘长40mほどの前方后円坟ですらその全容を把握できなかったのです。
その后调査现场であれやこれやの仕事(4割が土嚢への土詰め、4割が土嚢运び、残りの2割が土嚢积み)をしながら毎日を过ごしていると、徐々に、目の前の景色にオーバーラップするように古坟の形がイメージできるようになってきました。いわゆる础搁を头の中でやっている感覚です。このイメージはその后、各地の古坟を多く访れると更にはっきりと浮かぶようになってきました。一见なんでもないように见える斜面でも「ここには平坦面があるんじゃないか?この斜面の外に更に坟丘が伸びているのではないか?…」などのことを考えられるようになってきたのです。こうした「嗅覚」(目ですが)が、考古学ではとても大事なのです。

坟丘长190尘の前方后円坟。どの场所を写したものかわかりますか?
(京都府京丹后市神明山古坟?东より)
冒头に、考古学につきまとう派手なイメージに言及しました。しかし、大学で本格的に勉强し始めて実感したのですが、考古学の研究の99%は、见た目にも地味な资料を対象としたものなのです。私が専门とする古坟时代の场合も、豪势でキラキラした副葬品もあるにはありますが、実际に手に触れるのは埴轮(しかもその大半が単纯な円筒形のもの)?土器?鉄など、アースカラーのものばかりです。しかし、小さな土器のかけら、一见自然の石にもみえる石器等どんなに地味で小さな资料からでも引き出せる情报はあって、そのためにはモノに多く触れてイメージ力を锻えることが不可欠です。はじめから何でも见通せる人などいませんし、大学から考古学に兴味を持ったのであればなおさらです。大事なのは、とにかく资料に触れること、集中力をもって接することだと思います。

真っ暗な石室の中、うまくライトを当てると石棺に刻まれた当时の工具痕が浮かび上がります
(奈良県御所市新宫山古坟?家形石棺)
この地道な作业を継続する力こそが、分野を问わず卒业论文を书くときに问われる力の本质だと私は考えています。考古学でいえば基本资料を集め、実际に现物を见てまわり(テーマによっては全国をとびまわることも)、谁も见てこなかった侧面にスポットライトを当てて考察する。一见地味な资料も、料理の仕方次第で大きく化けるのです。なにより、その资料に対する爱着がわきます。例え见た目は地味でも、自分がその魅力を谁よりも知っているんだ、という自信が、きっとあなたを卒业まで导いてくれることでしょう。