
私は今、自分の好きなことを职业にさせて顶いているとても幸せな人间だと思っています。いい论文が书けた时、いい英诗を読むとき、充実感を味わうことができます。
私は、とにかく英语が好きな少年でした。厳密には英语の音が好きだったのだと思います。ラジオの英会话番组から流れてくるネイティヴ?スピーカーの発音にうっとりとし、それを真似た自分の発音を人から褒められると余计に英语が好きになりました。そのすぐ近くに住んでいましたから、平和记念公园へ行って観光客の外国人を捉まえて、覚えたての英语を使ってスリルを楽しんでいました。
もう一つ小さな顷から好きだったものがあって、それは、歌謡曲でした。当时、カラオケは未だありませんでしたが、テレビでも歌謡曲番组が花盛りの时代で、フォーク歌手が一世を风靡し、ヒット曲の歌词を集めた所谓、歌本がたくさん出回っていました。少々、大袈裟ですが、私の言叶への感性や思想は、歌謡曲の歌词が作ってくれたのかもしれないとさえ思っています。たとえば、泉谷しげるの「黒いカバン」のユーモラスな歌词の底に流れている、権力に対する反抗精神は、中学生の私に妙な快感を与えてくれていましたし、武田鉄也の「赠る言叶」の冒头「暮れなずむ街の光と影の中???」という歌词は今では陈腐に响くかもしれませんが、当时の私には涙が出るほど綺丽な言叶に闻こえました。
高校生の頃、進路を考える中で、朝から晩まで好きな英語を読んだり、聞いたりしていられたらどんなに幸せだろう、と思うようになりました。そうだ、英語の先生になろう。それで英文科へ進んだのです。私の文学との出会いは、大学生になってからで、遅ればせながら、かたっぱしから世界の文学を読み漁りました。当時、至る所で学生主導の読書会が開かれていました。大学院生の先輩たちが、文学作品の英語を見事な日本语に翻訳していく様子を見て、私のやりたいのは、単なる薄っぺらな紙のような「ぺらぺら」の英語をしゃべることではなく、もっと深い思想や、もっと精緻に、芸術作品として作られた美しさを英語の文学の中に見出すことだ、と考えるようになったのです。
英文学の面白さに目覚めた私には、同时に「伟くなりたい」という若さ故の野心が取り付くようになりました。ともかく当时の大学の教授たちは、「乞食と大学教授は叁日やったらやめられない」と言うほど楽しそうでしたから。私自身はその顷、教授にまでなろうとは思いませんでしたが、まるで呪文のように「勉强せにゃ、勉强せにゃ」と自分に言い闻かせていました。英语の先生ではなく、英文学の研究者になること、これも厳密には英文学を研究していられる状态をできるだけ长く続けること、が目标になりました。今のように、お金にならない文学を勉强することが大势の人たちから疎まれ、「高尚な学问」として见てもらえない环境であれば、おそらく私の生き方は违ったものとなったかもしれないのですが、ともかくその顷は、文学をやることは立派なことと见なしてもらえました。ですから今でも、たとえば、夏目漱石が「僕は一面に於て俳谐的文学に出入りすると同时に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な维新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて见たい。」と书いているのを読んだりすると、大げさだな、と感じざるをえないのと同时に强く共感もしてしまうのです。
イギリスの叙情詩人シェリーが書いた恋愛詩の中で使われている The desire of the moth for the star (星を求める蛾の願い)という美しい言葉があります。夜の暗さは詩人の悲しい心の暗さに呼応し、遠く、とどかない処にいる恋人を求める詩人の魂が、闇夜に輝く星の光を求めてあこがれる蛾の気持ちに喩えられています。普通、恋愛詩の中では、蛾が惹きつけられ、飛び込み、挙句の果てに焼け死んでしまうのは、恋の炎であることが多いのですが、ここでは、遥か彼方の光を、少々、いや、かなり、愚かにも願い求めている虫のけなげさが胸を打ちます。遥か彼方の光を求める、というロマン派的な思いが、私の人生を動かしていました。偉くなりたい、という願いが、学部時代、留学というものが今ほど簡単にできる時代ではなかった頃、しかも私は学力の点でまだ準備が出来ていないという先生方の反対を押し切って、バイトで貯めた資金を使い、一年間ロンドンで暮らすことをさせた唯一の動機でした。そしてその劣等感と挫折感に苛まれた、わからないことだらけの孤独な一年間が、それからの私の姿勢を形作りました。
大学院へ进学した私の次の愿いは、英文学をやる以上、イギリス人やアメリカ人と対等にやりとりができるようになりたい、というものでした。外国人としての英语に甘んじるのではなく、英语を母语とする英文学研究者に教えてやれるようなことを言い、书けること。しかも日本の影响を受けた作家や作品を扱うことで外国の研究者の関心を买うのでは、まだ対等ではない、という意识が私には拭い切れず、完全にイギリス人やアメリカ人の土俵で学问という相扑をとりたい、と愿うようになりました。科学やスポーツの分野ではそれが出来るのだから、英文学でもできるはずだ、と少々、いや、たぶんかなり、愚かにも信じ続けているのです。