<お问い合わせ先>
広島大学东京オフィス
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贰-惭补颈濒:迟辞办测辞(础罢)辞蹿蹿颈肠别.丑颈谤辞蝉丑颈尘补-耻.补肠.箩辫 ※(础罢)は半角蔼に変换して送信してください。
访问日
2018年5月15日
センパイ
永田周太郎氏
1995年工学研究科博士课程前期修了后、罢叠厂テレビ入社。
现在までに多数のドラマ番组を手がけ、伊藤熹朔赏、映像技术赏などの受赏歴を持つ。
罢叠厂入社后も広岛大学に在籍し、2009年工学研究科博士课程后期修了。
访问记 笔补谤迟2

(左から)川村(东京オフィス研修生)、久保田涼子氏(第三世代が考えるヒロシマ「」継ぐ展代表 《》)、永田周太郎氏(罢叠厂テレビビジュアルデザインセンター、工学研究科博士课程2009年修了)、村冈大祐氏(工学研究科2007年修了)、有富大辅氏(生物圏科学研究科2008年修了)


こちらはドラマの台本。表纸まで「この世界の片隅に」仕様です。。。

この模型、永田さんお一人で作られたそうです。
ここにもこだわりが???


広岛大学のこと、ヒロシマのこと、东京で仕事をすること、そして现在までに仕事で多くの広岛にまつわる作品に携わっていることなど、さまざまにお闻きしました。永田さんには率直に、お答えいただきました。
―なぜ东京に就职されたのですか?
永田「东京オフィスっぽい質問だね(笑)
広大にいた时から『东京行こう』とは别に思ってなかったよ。
たまたま、テレビ局で、デザインの仕事ができるのは东京のキー局しかなくて、採用を行っていたのが罢叠厂しかなかったんよ。」
―初めからドラマの美术に携わろうと思ったのですか?
永田「それもね、罢叠厂の採用时期が当时4月で、他の公司より早かったから(笑)それで罢叠厂受かったから、他はもう受けなかった。」
―罢叠厂入社前までは、どのように就职を考えていたんですか?
永田「自分が学生のころは、大学2年生あたりでバブルがはじけて、学部を卒业する时はちょうど就职氷河期(1993年ごろ)だったんよ。
その时自分は大学院に进もうと思ってたからまったく就职を考えてなかった。」
―当时不安はあったんですか?
永田「不安?うーん、全然。横并びだしね。みんな同じ状况だったから。俺だけ不安ってことはなかったよ。」
―研究室はドクターまで取られていますよね。
永田「ドクターはね、社会人枠で取ったから2009年に。」
有富「2008年に取材した时に、広岛に时々帰っている、っておっしゃっていましたよね。」
永田「あ、そうだったね。
『涙そうそうプロジェクト 広島 昭和20年8月6日』(2005年)の撮影をやっている時に、杉本俊多先生となんかの拍子に『博士を取ろう』という話になって、その直後、大学院に入ったんよね。
でも博士课程は大変だったよ。审査もなかなか通らないし。」

広岛大学に在籍中、永田さんの担当教员は、大学院工学研究科教授の杉本俊多先生でした。现在、杉本先生は退官されており、たまに连络を取っているそうですが、今でも西条にお住まいとのこと。ちなみに永田さんは広岛県呉市出身で、奇しくも今回の『この世界の片隅に』も呉市を中心に広岛県を舞台にした作品です。
―罢叠厂入社后、今回の「この世界の片隅に」も含めて、広岛関连のドラマに携わっておられますよね。
永田「これもたまたまだよね。
今回は、编成でこれやる、って决まった时に、一番最初に电话がかかってきたんよ。监督とかも决まる前に。
特にこの作品は时代剧だし、パッと撮ることができない。美术的にも大掛かりで、时代考証もいるし、まあ当然だけど适当には作れないよね。
セット见たと思うけど、ああいう民家でも、ドラマによってはスタジオの中に作ることもあるけど、今回はまるまる一栋作らないと、例えば焼夷弾も落ちてくるっていう场面をスタジオでは作れないから、外で作ることになったんだよね。」
―「この世界の片隅に」が、出身地の呉市が舞台の物语ということで、制作にあたって特别な思いもあるんじゃないでしょうか。
永田「そうなんよ。いつもはもうちょっと楽にやるんだけど、今回は相当空回りしとるんよ(笑)
今は制作が一段落しているから、これからはもうちょっと力を抜いてやろうかなとは思ってる。」
―ずっと呉ですか?
永田「幼稚园、小中高は呉で、大学は広大。父亲が呉市で、母亲が広岛市。
『この世界の片隅に』に出てくる北条家と同じよ。」
―呉の実家に帰られたら、どういうお话をするんですか?
永田「あんまり话しせんけど、まあ方言で分からんところは闻いたりしてるよ。
呉は「○○しちょる」って言うでしょ?でも広岛では言わないんよ。そういう方言の违いの确认とかする。」

大掛かりなセットを作る上で、大势のスタッフが関わる。永田さんはそのスタッフを取り仕切る、罢叠厂の美术班における、いわゆる『ボス』なんです。
―(台本のスタッフ名簿を一同眺めながら)スタッフの方と饮みに行かれますか?
永田「主要なメンバー何人かとは、ことあるごとに行く(笑)
『この世界の片隅に』では、全体ではまだ行ってなんだけど、明后日広岛でロケがあるから、そのあと俳优さんも含めて全体で内入りしましょう、という话にはなっている。
スタッフのみんなとはもう长く付き合っているからツーカーよ。」
―新しいドラマをする时に、初めて仕事をするスタッフもいらっしゃると思いますが、そういった人とコミュニケーションを取る时ってどうされるんですか?
永田「今回も外部のスタッフで、初めて仕事する人もいるけど、すぐ打ち解けるよ。」
―それは、永田さんなりの术はあるんですか?
永田「うーん…ちゃんと挨拶するとか(笑)」
―取材场所に来るまでに、永田さんが色んなスタッフの方谁にも気さくに话かけられていたのが印象に残ったのですが。
永田「そりゃあギスギスはせんよ、わざと。」
有富「美术セットを作る时に、永田さん以外の人を含めて复数人で作る时、どうしてもイメージと违うことがあると思うんですけど、そういう时は――」
永田「怒鸣る(笑)敢えてね。まあ妥协する时もあるよ、まあいっか、っつって。」
有富「自分も、昔のインタビューの时とは违って今は会社勤めなので、部下に自分のやりたいことが伝わっていないときに、怒鸣れないんですよね。
『そこはそうじゃないんだよ~』っていうしかないんです。」
永田「まあ俺も、怒鸣らないように前もって手は打っておくけどね。
确认を怠らないとか、それぐらいはするけど、予测不可能なことも起こるしね。」
有富「スタッフの方は、职人気质、というか、现场肌、みたいな方がいらっしゃって、そういう方々に伝えるのは难しそうだな、とは思いますね。」
永田「でも割と、怒鸣った方が『あ、この人本気なんだな』っていうのが伝わりやすいんよ。
わざと怒ったり、切れる演技をする时もあるよ。『あの人急に切れるよな』と思われたりするかもしれないけど(笑)
なあなあにならないですむからね。紧张感を保てるし。」

取材に同行して頂いた久保田さんは、「第三世代が考える ヒロシマ「」継ぐ展」というイベントを企画?運営されています。広島を知らない人へヒロシマを伝える難しさについて、永田さんに聞きました。
久保田「私、「第三世代が考える ヒロシマ「」継ぐ展」というのをやっているんです。
広岛以外の场所で、ヒロシマのことを良く知ってもらったうえで、今と结び付けて考えてもらう、という机会なんですが、美术を通じて、ただの原爆についての展示ではなくて、亲子连れにも来てもらうようにもっと敷居を低く见てもらいたいと考えてやっています。
今度仙台で展示を行うのですが、広岛に行ったこともない、広岛の空気に触れたことのない人が沢山いるんです。」
永田「それちょうど、最近同じ话をした。东北の人は、东京から西のことは1つの同じ国だと思ってるって。」
久保田「あ、そうなんですか(笑)共感がないと繋がりにくいんですよね。
そういう、広岛を知らない人に広岛を间接的に感じさせる空间づくりはしていきたいのですが、広岛以外の场所で広岛を伝えるなら、永田さんはどうしますか?」
永田「んーとね…このドラマは、ただ洗濯してる、とか、ただお釜でご饭を炊いてる、とか、そういうその时代の人にとって他爱もない日常的なことでも、现代の人は分からないから、ドラマ性になったりすると思うんだよ。
そういうことを展示でもやってみたら、とは思うけどね。」
有富「8月6日题材の作品を见る时に、どうしても覚悟をして読んでいたのですが、マンガの『この世界の片隅に』で描かれていることがあまりにも日常的で、びっくりしたんですよね。」
永田「広岛県の人は、温暖な気候とともに、人柄も风土もほんわりしているよね。
『悲惨さ』だけじゃなくてそういう部分も、広岛人からしたら伝わってほしいよね。
ちなみに呉は海军があったから、少々ピリッとしている。こないだ江田岛の术科学校でロケハンに行ったら、学校の中が镜だらけなんよ。
でも撮影の时に映像にカメラが映ったりするから学校の方に『镜を隠してもいいですか?』って闻いたら『ダメです』って。
要は、海军って身だしなみが大切だから、上官の部屋に入る前に镜で身だしなみを整えるためにあるんだと。そういう风土らしいよ。
こういう、风土とか、人柄が伝わってくる话って面白いじゃん。」
久保田「戦时中の恋爱话は意外に面白かったりしますもんね。」
永田「『この世界の片隅に』も、饭食えるか食えないかっていう时に、ものすごく人に嫉妬したりとか。そういうところが面白いよね。」

インタビュー感想
○有富大辅氏
永田さんとお会いするのはそれこそ10年ぶりでしたが、学生ではなく、社会人として话を伺う中で、改めて多くの姿势を学ぶことができました。
特に、自分の思い描いた仕事と违う场合に「敢えて、怒鸣る」とおっしゃった言叶が、周囲との协调を特に重视してきた私にとって、とても印象的でした。
自分の仕事にとことんこだわり、真挚に想いを持って取り组んでいるからこそ、周囲に対しても高いレベルを望むことができているんだと思います。
仲间と本気でぶつかり合える仕事をしていきたいと改めて感じました。
○久保田凉子氏
ヒロシマを継承する方法は様々ですが、永田さんはドラマの美术に携わることで、戦时中の街并みや建物を再现し、メディアを通して全国の人たちにヒロシマを知るきっかけをつくられていると感じました。
インタビューの中で「自分自身が物语の舞台である呉出身者ということもあり、制作时に妥协が出来ず空回りをすることがあった。」と仰っていたのが印象的でした。
沢山の人たちが携わり心を込めて创られたドラマは、世代を超えて共感を生み出す、ひとつの大きな継承のあり方だと思いました。
○村冈大祐氏
永田周太郎さんは、大学院の同じ研究室の先辈にあたります。
指导教官の杉本俊多教授からは、永田さんのお话を几度もお闻きし、伟大な方がおられるんだな、と感じながら过ごす学生时代でした。
学生时代に一度もご挨拶できておりませんでしたが、このような机会にお会いできまた、スタジオ、职场まで见学させていただきまして、大変光栄でした。
今回、现在撮影中の「この世界の片隅に」や2005年放送の「広岛?昭和20年8月6日」など、広岛に缠わるお仕事のお话をいただく中で、私が特に印象に残ったことは、『现场を爱されている』といったことです。
10年前の涙そうそうの顷も第一线、现在もバリバリ、そして今后も更に、ドラマなどの制作に贪欲に取り组まれようとされる姿に、こちらも大変刺激をいただきました。
また、现在もスタディ模型をご自身で作成されるなど、自分で手を动かして、空间イメージを膨らませておられる姿にも、现场を爱される姿を、强く感じました。
拘れることがいい仕事や作品を生み出し、好きだから拘れるといった様子が、永田さんのお话の节々で感じることができました。
また、今回のインタビューでは、「広岛?昭和20年8月6日」の制作に入られるにあたり研究室等で収集された、チェコ人建筑家、ヤン?レツルの产业奨励馆の図面や、博士论文で取り上げられた、近代建筑の巨匠、ミース?ファン?デル?ローエの建筑など、建筑意匠学に関するお话もいただきました。
研究室时代を含め、これまでの积み重ねの延长に、今の自分の仕事やこれからの自分らしさを出していく要素があるのではないかと、自分を见つめなおす、贵重な机会になりました。
お话いただく永田さんの背后の本棚に綺丽に并んだ、杉本俊多教授の多くの着书が目に入った际にも、强くそう感じました。
研究室の大先辈でありながら、気さくに质问に答えてくださり、话しかけてくださる様子がとても印象的で、人として尊敬できる先辈にお会いできた贵重な日となりました。

取材の中で、永田さんが所持されている贵重な资料をお见せいただきました!





