
先日テレビ(狈贬碍)のニュースで“别厂辫辞谤迟蝉”なるものを知った。复数のプレイヤー间で行われる対戦型テレビゲーム(格闘ゲーム?)を“スポーツ”として捉えるとのことだそうだ。2022年のアジア竞技大会(アジア大会)ではメダル种目に加えられるらしい。子供の顷、テレビゲームなんてしていないで外で游んで来なさい!と言われた世代であるので隔世の感がある。スポーツという言叶の捉え方や定义はいろいろあるのかもしれないが、やはりテレビゲームをプレイすることがスポーツであるということを受け入れるには抵抗がある。しかしながら先入観をなるべく入れないようにしてニュースの映像を见ていると、大変な反射神経が必要とされそうだし、机敏で复雑な手の动きを行うには日々の锻錬が重要なのだそうだ。そうなると、これはもうスポーツと捉えるべきとも思えるようになってくる。その上最近は、高额赏金が悬った世界大会なども开催されており、このことが対戦型テレビゲームを竞技として捉える考え方を加速しているようにも思える。“対戦型テレビゲームはスポーツ竞技である”という新しい考え方が社会に受け入れられ、なんの违和感もない価値基準となる日も远くないかもしれない。
何かしらの価値基準がないと物事の判断は难しいのだが、それが先入観となりその価値基準に缚られてしまうと、物事の本质や新しい価値を见逃すことに繋がってしまう。たとえば、ある仮説を立てた、または何かアイディアがひらめいたというような场合、我々の世界では実験を行う。当然、仮説やアイディアを実証したいわけであるから、必ず“信じたいことや言いたいこと”という先入観が存在する。望みどおりの结果が得られた场合は良いが、そうでなかった场合、実験は失败だったのだから仮説やアイディアは间违えていたのだ、と先入観に基づいて结论し、そこで思考が停止してしまうのは自然であろう。しかしそこであえて先入観を取り除き、もう一歩思考を进めたいものである。よく世纪の大発见は失败から始まった!などという。自分が同じような失败に直面した时に、これはなにか潜んでいる!と思えるかどうか自信はないが、実験结果を解析、解釈する场合にはいつもフェアな気持ちでデータに向き合い、先入観なしに物事を考えるということを忘れないように心がけたい。ひょっとしたら先入観に缚られていては见いだせない、新しい事実や価値が潜んでいるかもしれない。
ちなみに、日常での会话もこのことが大変重要であるように思う。海外ポスドク时代、ラボメンバーと话をしていてよく感じたことがある。知り合って最初のうちは异国の人だからと、自分の価値基準も相手の価値基準も意识しながら话をする。しかし时が経ち仲良くなってくると、ついつい日本人の常识という先入観をもって话をし、また相手の话もそのような先入観をもって闻いてしまい、お互いの理解がまったく得られなくなることがあった。理解が得られないだけならまだしも、いろいろな误解を生んで问题に発展することさえあった。どんな时でも自分の価値基準という先入観にだけ缚られて会话するのではなく、相手の话をフェアな気持ちで闻き、できれば相手の価値基準も加味して会话できたら良いと思う。でもこれがなかなか难しい。お互いの関係がなれ合いになってきたり、会话が白热してきたりするとすぐにこのことを忘れてしまう。
别厂辫辞谤迟蝉のニュースから、ついつい忘れてしまう“先入観に缚られず物事を捉える”という大切さを再认识したので、ありふれた内容かもしれないが自戒の念を込めてつぶやいてみた。ところで、このつぶやき自体は先入観に缚られていないだろうか???。日々精进である。