
“「学问に王道なしの王道はロイヤルロードの意味だ。そうじゃない、えっと覇道というべきかな。僕は王道という言叶が好きだから、悪い意味には絶対に使わない。いいか覚えておくがいい。学问には王道しかない。」(中略)この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことだ。”*
“科学というものは、もの凄く谦虚なものだ、と僕は思う。(中略)科学の前で、研究者は平等なのだ。科学というものは、そういう意味で民主主义と似ていると思う。(中略)喜嶋先生は、もちろん一流の科学者だ。でも、ニュースやテレビに登场するような有名人ではない。普通の人は、先生を见ても、そんな凄い人だとは絶対にわからない。これも、科学というものが谦虚である証拠だと僕は思う。”*
“とても不思议なことに、高く登るほど、他の峰が见えるようになるのだ。これは、高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ、あの人は、あの山を登っているのか、その向こうにも山があるのだな、というように、広く见通しが利くようになる。この见通しこそが、人间にとって重要なことではないだろうか。他人を认め、お互いに尊重し合う、そういった気持ちがきっと芽生える。”*
冒头から引用した文章で大変恐缩だが、これらは『喜嶋先生の静かな世界』という小説の一节である。ご存知の方も少なくないと思うが、この本は理系の大学院生が卒论生として研究室に配属されてからの日常を描いた作者の自伝的な小説であり、作中では学问を追求することの纯粋さ、喜びそして厳しさが明るい文章で语られている。また、研究(特に自然科学)に没头したことがあるからこそ共感できる感情の机微がちりばめられており、言语化すると硬くなりがちな「研究」や「科学」の本质が軽やかに美しく表现されていることが嬉しくて、私は読み返すたびに目头が热くなる。しかし、もしかしたらごく一般の人には理解できないことも少なくない??と思うとちょっと残念な気持ちにもなる。
最近私は、共同研究者(教育学の専門)の主導のもとで日本と欧米の高校の生物学の教科書を「科学の本質に関する記述」という観点で比較分析に関する研究に携わった(分析のプラットフォームは共同研究者が構築したため私は分析とデータのまとめに係るディスカッション程度の貢献だが)。ここでは、「科学の本質(nature of science)」の学問的な定義や分析方法の詳細は省略するが、分析結果の結論から述べると、日本の教科書は欧米のそれと比較すると、科学の本質のうち、サイエンスのダイナミズムのようなものがほとんど記述されていないことが判明した(未発表)。つまり、1)科学は変化しながら発展していること、2)それぞれの時代における社会との関わり、そして3)創造性や創造的活動の重要性に関する記述が極めて少なかった(項目によっては皆無であった)。つまり、このことは日本の生徒が理科教育を通じて科学に対して受ける印象が「科学はリアリティーと魅力に欠けるもの」となってしまうことを示唆していた。日本人の科学リテラシーが低いことは社会的な問題であることは周知のとおりであるが、特に社会において指導的な立場にある人々(政治家、官僚、会社経営者など)の科学リテラシーが低い場合、その問題は今後より深刻になる。そして、それは中等教育での理科教育にも起因しているのではないかと考えている。どうしたら、科学の魅力と重要性がその深遠さや誠実さとともに多くの人に伝わるのだろうか。
一方で、アメリカの研究室にて、お茶のみ部屋のテーブルの上に无造作に置かれてる服部勉先生(东北大学名誉教授)の数报の论文(1970-80年代)を目にしたときには、ささやかに心が震えた。世界のどこかで数十年前の论文が読み込まれ、そして最先端の研究论文に引用されている。服部先生の研究は蹿补苍肠测ではないかもしれない。しかし、ゲノム情报がいとも简単に解読され、遗伝子自体も比较的容易に改変できてしまう现在の微生物学の视点からみても、その着眼点のオリジナリティーと本质を见极める洞察力には感服される。それでも、服部先生自身は生化学的な手法が主流となる时代(1950年代?)において、土壌中の微生物を地道に観察することから始めることに自分自身不安を覚えていたとおっしゃっていた(环境微生物学系学会合同大会2017)。服部先生は今年で85歳になられるにも関わらず、学会に毎年参加され、ポスター会场で発表者(学生)と、気さくに、热心に议论されている。私の研究についても「あれ(学生のポスター発表)はとっても面白いですね。私もね、似たようなことを30年前にやったんですよ??」と言われてしまう。いつか??本当の意味で服部先生を惊かせたいと思っている。
冒头に戻る。「学问には王道しかない」。
自分の研究は王道と言えるのだろうか??エキセントリック(小説を読んでいただければこの表现を理解していただけます)になってはいないだろうか??。自问自答しながら、不安を打ち消すためにも少しでも高く登ろうと、とにかく足を前に进ませている。そう、冒头で绍介した小説でも、こう书かれている。
“光り辉くゴールなんてもちろんない。周囲はどの方向も真っ暗闇で、自分が辿ってきた道以外になにも见えない。たとえ飞跃的に进むことができて、なにかの手応えを感じても、そこには「これが正しい」という証明书は用意されていない。それが正しいことは、自分で确かめ、自分に対して説得する以外にないのだ。”*
* 喜嶋先生の静かな世界、森博嗣、講談社、2010年