麻豆AV

第38回星野保客员教授

バイオのつぶやき第38回星野保客员教授

 私は四半世纪に渡り,雪腐(ゆきぐされ)病菌(びょうきん)と呼ばれる积雪下で小麦などを枯らす植物病原菌の性质を解明し,これを鉱工业に役立てるとうそぶいている(科学リテラシーの高い方なら,ここに含まれる谦逊を即座に见破るはずだ)。西条に転勤した际、この研究をどうするか思案し、闪いた。日本を代表するUMA(未确认动物)、ヒバゴンのホーム?広岛県北部は、天と法の定めによる国内豪雪地域の西端(にしのはし)で南限だ。広岛県で现在、雪腐病菌はガン无视されているが、県内での雪腐病菌の记録は昭和十年代からある。栽培の歴史はもっと古いだろと思い、调査に协力顶いた农家の方に伺ったところ、「そじゃのう。郷土资料でもみんさったら」との助言を得たことで、话は思わぬ方向に転がる。

 広岛県にほぼ相当する安芸(あき)(ビン)(ゴ!)(寒…(>_<))山間部の記録を調べてみると、1697年、大雪で田の麦が腐ったとある(麦は稲の裏作として栽培されていた)。300年以上も前に雪腐病は、当時の人々の耳目に触れていたのだ!国内における雪腐病菌の最古の記録は1786年、現在の富山県だと、明治?大正期に活躍した植物病理学者、堀正太郎博士は1934年に発表し、私も私の師匠もこれを引用していた。もっと記録を遡れる。この(私にとって空前絶后、超絶怒涛の大)発見以来、古文書にひそむ雪腐病を捜している。

 真剣に记録を読みだすと、実に兴味深い。雪腐病が発生するには、2ヶ月の积雪期间を必要とする。1732年の北広岛町の记録には、「麦は50日位雪の下にあったものはあまり腐らなかったが、50日を过ぎたものは大部分腐った」とそのものズバリの记述に见つけて、放心した。この村役人の方は、色々手を讲じたが駄目だったとさらに缀っており、色々ってなによ?と恐山経由で寻ねてみたい。1802年、浜田藩では雪の下で枯れない麦を探して、(恐らく飞び地のあった)信州から取り寄せ试作したり、灌漑によって被害を軽减する试みが行われていた。当时の人々が雪の下で麦が枯れる现象を菌类による病害と认识していたか不明だが、品种や栽培法により被害が异なることを理解していた。

 1830年代の天保の飢饉の被害は大きく、広岛北部では、4人に1人が亡くなった。戸河内町史の编纂に関わった今田叁哲氏は、一家の大黒柱が危机の中、妻子のために奋闘し、力尽きる凄惨な状况を记している。古文书の记録から、当时の人々の暮らしを生き生きと再现するさまに文系の力を感じる。私たちは旧态依然した出来事に対して、つい江戸时代かよ!と愚痴りたくなる。でも当时の人々が知恵と経験を绞りに绞って生きている姿をディスる気はしない。

 リレー式の讲义で初めて会う学生たちに、「科学者たるもの常に疑い続けるものだ。しかし、私の存在まで疑われたら讲义にならないので…」私は、これまでこのフレーズを讲义のつかみにしていた。宇宙の全てに疑问を持ち、証明することは私にはできない。だが自分の専门分野では、常识や既存の报告の里を取り、可能な限り掘り下げることで新たな知见や解釈、再発见ができることを知った。自分の庭は隅々まで知りたいものだ。


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