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第39回藤江诚准教授

バイオのつぶやき第39回藤江诚准教授「帰納から演繹へ」

 大学受験について考える人(高校生、高校の先生、塾の先生别迟肠)と话すと、(大学受験という文脉において)「生物は暗记科目」なので、という言叶がよく出てくる。场面によって、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも使われるが、どちらかというネガティブな(というより消极的な)意味で使われる场面が多いように思う。実际にそうなのか?と考えると、生物学と対极にあるように思われがちな物理学や数学においても、大学入试を突破するには相当量の记忆?暗记が必要なのが现状だ。数学などは公理や定义だけ理解していれば、その延长で入试问题は解答できるはずだが、実际には膨大な公式や方程式の解法等を记忆しておかないと、决まった时间内で正答に达するのは困难だ。二次方程式の解の公式や、叁平方の定理や别xの微分を受験会场で导きながら解答する学生はいるだろうか? 受験产业も、公理や定义から论理的な思考によって正答を导く能力を向上させるよりは、过去に出题された问题をパターン化して记忆させる事が収益につながる事を理解している。塾や予备校が想定しない问题を毎年出题して、论理的な思考力を考査している大学?学部は日本全体でも仅少であろう。结局は、数学?物理も大学入试の多くの场面では暗记科目として取り组むことが一般的なソリューションだ。

 それでは、なぜ生物学はことさら暗记科目として强调されるのだろうか? 一つは、数学?物理で暗记することの多くは、定义?公理、あるいは少数の基本的な方程式から论理的に诱导できるのに対して、大学入试の生物学で问われる事柄には、知らないとどうしようもない(単体として独立している)用语や数字が多く含まれるからだ。また一つは、大学入试の场面で、数学?物理では暗记+论理性(演绎的思考)を要求される问题が多いが、生物学では暗记さえしていれば解答できる出题も多いのも理由であろう。高校の生物学で学习する事项が、相互に论理的に纽付けされていれば良いのだが、高校の生物学の教科书を见ると、罗列的な(博物学的な)性格が强いように思う。生物学とは暗记するものである、という思い込みが强いのか、大学の讲义の期末试験で论理的思考力が必要な出题をすると受讲生にはすこぶる评判が悪い。生物学に限った话ではないが、理屈付けて思考する训练は必要だ。

 さて、受験勉强を离れて研究の场面においてはどうであろうか? 古典的な研究では、ダーウィンによる进化论は、博物学的研究から生命の本质に迫ったものである。メンデルによる遗伝の法则の発见も博物学的な事象の収集(帰纳的方法论)がある一定量を超えた际に演绎的な考察への転换がなされ「遗伝子」という概念に至っている。颈笔厂细胞の作製は演绎的な思考が出発点にある美しい研究であるが、人の遗伝子配列を眺めているだけで山中ファクターというアイディアを思いつくわけでもなく、先人からの知见が积み重なった成果だ。ある分野で博物学的な知见が蓄积され(帰纳的研究)その蓄积量が閾値を超えた时に、博物学的な知见を统合する発展(演绎的研究)がなされ、生命现象を论理的に説明する根本原理が确立されるのが生命科学の本质なのかもしれない。

 质量分析技术の飞跃的な进歩により、辞尘颈肠蝉研究では莫大なデータが蓄积され続けているし、顕微镜技术の进歩により细胞内の1分子动态のデータを蓄积することも可能になってきた。ゲノム编集技术の発展も目覚ましい。そのうちに(私が死ぬまでには?)细胞の构造?机能が発现?维持される仕组みを统合的に説明する理论が出来るのだろうと期待している。莫大な蓄积データから根本原理を见出すには、コンピュータでビッグデータを解析する技术が必须である。生命科学のコースでもコンピュータサイエンスを本格的に取り入れる时期が来ているように思う。

 

  


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