
准教授
人文学プログラム 日本文学語学分野
物语は「书き换え」られる-読者から作者へ-
私の専门は日本の古典文学です。特に、『源氏物语』をはじめとする古代中世の物语が、どのように作られ(=生成)、どのように読まれてきたか(=受容)を研究しています。
生成と受容というと、异なる次元のことのように思われるかもしれません。しかし、日本の古典文学、とりわけ古代中世における物语の场合、生成と受容は密接な関わりを持っており、これらを切り离して考えることは容易ではありません。その理由は、この时代における物语の特质と直结しています。
古代中世において文学作品は、手で书き写され、人から人へと伝えられていきました。ポイントとなるのは、この「书き写す」という行為です。まず、かなりの高确率でミスが起きます。误写や误脱と呼ばれるものですが、人间のすることですから、これは致し方ありません。现代でも、手书きであれタイピングであれ、最初から最后までまったくミスなく仕上げるということは难しいでしょう。加えて、古代中世における物语の场合、书き写す际に、その表现や内容を変えてしまうことが少なからずありました。登场人物の形容、场所の名前といった単语レベルで书き换えることもあれば、和歌や场面をそっくり入れ替えたり追加したり、さらには章段や巻といった大がかりな単位で新たなものを加えたりすることもありました。现代とはまったく异なる発想のもとで物语が扱われていたわけです。
このように、作品の伝来には不可欠の「书き写す」という行為に伴って、物语はさまざまに変容していったのです。変容こそが、古代中世における物语の特质のひとつと言ってもよいでしょう。书き写された数だけ変容もまた起こりえたのであり、结果として、ひとつひとつの作品にさまざまなバリエーションが生み出されていったのです。
とりわけ「书き换え」という行為には、解釈が伴います。「书き换え」とは、その作品を自分なりに解釈した结果として、目の前に差し出された表现に対する同意や违和を表明する行為に他ならないからです。読者は「书き换え」をもって作品に参画するのであり、それによって読者から作者へとその立场を転换するとも言えます。いかに読み(=受容)、いかに新たなバリエーションを生み出すか(=生成)、古代中世の物语にとって、受容と生成はひと続きのものと言えるでしょう。

受容から解釈を探る
平安中期に作られた『源氏物语』は、日本古典文学の最高杰作のひとつですが、54巻も及ぶ大长编が一回的に成立したわけではありません。さらに、上记のような理由で、読者の手を経ていくうちにさまざまな异文が生み出されていきました。藤原定家(1162-1241年)の顷にはかなり错综した本文状况であったことが知られています。
そして、时を超えて変容していく中で、『源氏物语』に描かれていない部分を新たに创作することも行われるようになりました。私の主たる研究対象である『山路の露』と『云隠六帖』もそのような作品です。鎌仓时代はじめごろに作られた『山路の露』は『源氏物语』の〈その后〉を、室町时代ごろに作られた『云隠六帖』は光源氏の死(『源氏物语』において光源氏の死は具体的に描かれていません)と『源氏物语』の〈その后〉を、それぞれ描いています。
しかし、この2作品が描き出した〈その后〉は、まったく异なるものでした。『山路の露』は、『源氏物语』の〈続き〉ではない、と冒头で明言し、内容的にも『源氏物语』の结末を大きく踏み越えはしませんでした。これに対し『云隠六帖』は、いかにも『源氏物语』の一部であるかのように语り起こし、新たな人物をも多く登场させながら、自由自在に新たな物语を展开していきました。その相违は、『源氏物语』に対する2作品それぞれの解釈の相违に他なりません。『源氏物语』を完结したものと捉えるか(=『山路の露』)否か(=『云隠六帖』)、という点で2作品の见解は大きく异なっていたのです。

常识や価値観を相対化する
『源氏物语』を取り巻く作品は、このほかにも数多く存在します。系図、索引、和歌一覧、注釈、梗概(あらすじ)、等々。あるいは、『源氏物语』以外の物语においても、时代を超えた変容は见られます。平安中期の『落洼物语』から室町物语『落洼の草子』へ、平安后期の『夜の寝覚』から中世王朝物语『夜寝覚物语』へ、等々。そして、これらの作品たちは、それぞれの読者たちによって、さらなるバリエーションが生み出されてもいます。
たとえば前述した『云隠六帖』には、大きく2つのバリエーションが存在します。これらを分析すると、それぞれの描く女性像には差があることがわかります。それは、各バリエーションを生み出した人の抱くジェンダー観の相违を意味しています。
学部?大学院の授业では、物语を受容した作品の数々を学生たちと読解しています。それは、その作品を生み出した人々やその背景となる社会の时代性、価値観、ジェンダー性などを解明することにも直结しています。さらに言えば、平安时代の物语とそれを受容した多様な时代の作品を読み解き、各々に反映された価値観等を明らかにすることは、现代を生きる私たちを相対化することへも繋がります。
古典文学というと、その名のとおり古いもの、现代とはかけ离れたものというイメージが强いでしょう。しかし、それを受容という観点から捉え、分析していく研究は、人间そして社会に迫っていくものだと思っています。まさに、「人间社会科学」そのものですね。
作品を分析していくと、现代の私たちからすると思いもかけないような解釈に出くわすことも少なくありません。研究に际しては、自分の常识や価値観といったフィルターを排除して、目の前にある文字ひとつひとつを丹念に、虚心坦懐に読むこと、その文字の背后にある当时の人――オリジナルを作り出した人や、それを受け止めて変容させていった人――の意识に寄り添うことが何より重要です。古今东西とわず、他者の言叶に真挚に耳を倾けること、自分とは异なる物事の捉え方を尊重することを常に意识して、取り组んでいきましょう。
なんといっても物语は面白い。さらにそこから过去?现在の人と社会を捉えていくことのできる物语研究は、抜群に面白いですよ。受容という窓から物语を、この世界を、一绪にのぞいてみませんか。
