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第11回 古瀬 清秀 教授 (大学院文学研究科)

考古学は総合科学 ?「三ツ城古墳」1号墳の築造年代を特定!?

古瀬 清秀 教授

大学院文学研究科 人文学専攻(地表圏システム学講座) 古瀬 清秀(ふるせ きよひで) 教授

に聞きました。 (2009.2.18 学長室広報グループ)

研究の概要

古瀬教授の主研究は、东アジアにおける古代の鉄および鉄器生产について、技术史的视点から解明し、东アジア全域の鉄文化の体系的研究を推进することです。古代における鉄の生产や鉄器の锻冶生产の研究に取り组んでいた学生时代、あるきっかけで塩ともかかわるようになり、瀬戸内海における製塩の研究も始めたということです。研究分野は多岐にわたりますが、もちろん、研究の中心にあるのは考古学です。1980年文学部助手採用のころから継続している帝釈峡遗跡群の発掘调査などの他、古坟文化研究の推进にも力を入れています。

 

叁ツ城(みつじょう)古坟

东広岛市西条中央にある、広岛県内最大の前方后円坟「叁ツ城古坟」は、1982年に国の史跡に指定されました。全长92メートルの1号坟を含む3基の古坟は復元され、一帯は、1800本余りの埴轮が立ち并び、古坟公园として整备されています。隣接する东広岛市立中央図书馆には「叁ツ城古坟ガイダンスコーナー」が设置され、出土品が展示されています。
 

 

出土した须恵器から古坟製造の年代を特定!

1951年に、広岛大学文学部考古学教室の故松崎寿和教授がこの古坟を调査した际に出土した须恵器(注1)は、胎土(たいど)分析(注2)から、5世纪前半に大阪府南部の泉北地方の陶邑(すえむら)窑跡群で焼いた「罢碍73型」ということは分かっていました。
1996年には、奈良市平城宫朝堂院(政务や仪式が行われる场所)に隣接する朝集殿下层の沟の调査で、树皮に近いところの年轮が残るヒノキ材が出土し、奈良文化财研究所が年轮年代测定法(注3)でこの木材を调査し、412年伐採の木材と判断しました。このとき一绪に、廃弃されたと见られる罢碍73型须恵器が同じ地层の沟から见つかっています。

(注1)古坟时代から平安时代まで生产された土器。野焼きで作られていた土师(はじ)器は、焼成温度が低いため、强度があまりなく、焼成时に酸素が充分に供给されることから赤みを帯びている。一方、山の斜面にトンネル状に作った登り窑で焼いた须恵器(すえき)は、高热で焼くため硬く、焼成时酸素を遮断するので青灰色である。古坟时代の须恵器は、主に祭祀や副葬品として用いられた。

(注2)土器や陶磁器の主成分である土そのものの成分を分析。

(注3)古い社寺の柱や梁、発掘された木などの年轮から、その木材を使って文化财が作られた年代を探る方法。日照时间や降水量などの気候条件で、年轮の幅が毎年违うことに着目。奈良文化财研究所では、顕微镜が付いた読み取り机で木材の年轮幅の変动を计测し、蓄积したデータから标準パターンを作成。现在、3000年くらい前までのスギやヒノキの标準パターンが存在するという。&苍产蝉辫;&苍产蝉辫;

1951年に出土した须恵器(出土片をつなぎ合わせて復元)

1951年に出土した须恵器(出土片をつなぎ合わせて復元)

古瀬教授は、2009年1月、(财)広岛県教育事业団埋蔵文化财调査室主催のシンポジウム「ひろしまの遗跡を语る」の基调讲演で、「叁ツ城古坟1号坟の筑造は412年ごろと特定した」と発表しました。
1951年に叁ツ城古坟で出土した须恵器の型式が、1996年に平城宫跡から出土した须恵器の型式と整合性があることに着目した教授は、须恵器の胎土に含有する元素量の蛍光X线分析法による分析(东広岛市教育委员会が実施)结果を踏まえ、同型(罢碍73型)と総合的に判断。出土场所から见て、须恵器は葬祭具と思われること、また、古坟の规模から、大和政権に一目置かれた実力者が一帯を治めていたとのではともいいます。

 

偶然を大切に!

「同じ地域や时代に成长した木は、年轮パターンが类似したものになり、异なる树木间でも年轮パターンを1対1で対応させることができる。奈良文化财研究所には、约3000年分に及ぶヒノキやスギの标準パターンがある」と奈良文研の粘り强い研究に敬意を表し、「たった一つの木片から年代が特定され、事実が明らかになる。この手法で明らかになるのは、あくまでも树木自体の年代であり、必ずしも、一绪に见つかったものが同年代と言うことにはならないが、他の调査方法と併用して年代测定することで解决されるだろう」と期待する教授。古瀬教授の长年の研究成果に基づく仮説と、奈良文研の木片の年代特定が结びついたことが、今回の古坟の年代特定につながりました。木片と一绪に须恵器が见つかったという偶然がもたらしたロマン。年轮年代测定法や、蛍光齿线分析法などの科学的手法以外にも、新しい分析方法が开発されているようで、これからの考古学研究に目が离せません。
 

「偶然って、とても大切です」と教授

「偶然って、とても大切です」と教授

奈良文化财研究所?光谷拓実年代学研究室长発表の论文「年轮から古代を読む」に掲载されている図「长期に遡る暦年标準パターンの作成原理」

奈良文化财研究所?光谷拓実年代学研究室长発表の论文「年轮から古代を読む」

に掲载されている図「长期に遡る暦年标準パターンの作成原理」

鉄は国家なり

アンドリュー?カーネギーが、鉄の时代の到来を予测し、製鉄事业の规模拡大により鉄钢王となり、事业家として活跃。「鉄血宰相」の异名を取るドイツのビスマルクは、「鉄=大砲」と「血=兵队」によってドイツ统一が解决すると演説し、鉄血政策を推し进めるなど、歴史において、鉄は国家の中心にありました。
一方东アジアでは、鉄の生产技术は、中国(纪元前9世纪ころから製鉄开始)から朝鲜半岛(纪元前1世纪ころから製鉄开始)と日本に伝わりますが、输入した方がずっと安くつくことから、日本は、自国生产ではなく、朝鲜半岛南部で生产された鉄を输入する道を选択します。反倭国の新罗の半岛统一(7世纪)など、6?7世纪の朝鲜半岛南部の混乱は、日本への鉄の安定的供给をストップ。日本は、そのときになって初めて、半岛の技术を见よう见まねで、日本国内での鉄の生产を开始します。9世纪ころには、鞴(ふいご)の改良で炉の大型化を実现、14?15世纪顷には高温液体鉄製鉄を可能とし、铣鉄生产が确立されていきます。近世になるころには和式製鉄法は完成の域に达し、踏鞴(たたら)製鉄として知られるようになります。

鉄や刀にまつわる言叶は、例えば「蹈鞴(たたら)を踏む」、「相槌を打つ」、「反りが合わない」などいろいろ。この他にもたくさんあります。

鉄や刀にまつわる言叶は、例えば「蹈鞴(たたら)を踏む」、「相槌を打つ」、

「反りが合わない」などいろいろ。この他にもたくさんあります。

古来の和式製鉄を伝える絵巻(JFE21世紀財団発行の理科読本「たたら 日本古来の製鉄」から)

古来の和式製鉄を伝える絵巻

(JFE21世紀財団発行の理科読本「たたら 日本古来の製鉄」から)

中国地方の鉄

広岛、岛根などの中国山地に形成されたコンビナートで钢が生产され、洋式製鉄法に取って代わられるまで、実に鉄生产の9割前后がここで生产されていたといいます。原料となる砂鉄の採取が、山间部の渓流で行われていたことや、大量に必要となる燃料(くぬぎとか栗の木製の木炭)运搬の省力化を図るため、山中に工场を造ったということです。
纯度の高い钢を生产するたたら製鉄のなかでも、特に优れた钢を「玉钢」といい、日本刀の材料としてよく知られています。现在では、财団法人日本美术刀剣保存协会が、岛根県仁多郡奥出云町(旧横田町)の「靖国たたら跡」を、昭和51年に「日刀保たたら」として復元、日本刀などの素材を製造しているそうです。

教授手作りの鎌。手前は玉钢

教授手作りの鎌。手前は玉钢

刀锻冶による锻錬(たんれん:钢を打って锻えること)の様子

刀锻冶による锻錬(たんれん:钢を打って锻えること)の様子

中国地方の塩

「20年前の岛屿(とうしょ)部の考古学踏査の结果、広岛県内で100カ所近い製塩遗跡が见つかった。万叶集にも古代の製塩法を咏んだ一节があるが、ホンダワラ(藻)を竿に引っかけて、海水を掛けては乾かし、竿の下の洼みに贮まった浓缩された海水(咸水=かんすい)を、製塩土器に入れて煮沸し、塩をつくっていた」という教授。こうした土器製塩法は、瀬戸内では、弥生时代中ごろから平安时代ころまで続いたようです。
最近の古瀬研究室の调査で、厳岛神社から海沿いを西に行った大川浦や须屋浦で、奈良时代から平安时代ころの物と见られる製塩土器が出土するのだとか。藤原京から出土した木简からは、8世纪初めころには、呉の仓桥岛から调塩が都にもたらされたことが记され、このあたりも製塩が盛んであったことが分かるそうです。

広岛で出土された製塩土器(古坟时代)

広岛で出土された製塩土器(古坟时代)

帝釈调査室物语

帝釈峡遗跡群発掘调査の基地である帝釈调査室(広岛大学帝釈峡遗跡群発掘调査室)は、1977年(昭和52年)に完成して、教员と学生の合宿所となっています。当时の故松崎教授の尽力で、71年に调査室が设置され、77年に建物が完成してから、教员や学生の研究环境が格段に向上し、この场所を拠点に多くの成果が生みだされています。2008年10月14日発行の研究室机関誌「いわかげ」第116号に掲载された教授の一文からは、地元の方々の暖かい支援や、劣悪な环境の中で调査にあたる当时の学生さんたちの様子が垣间见えます。现在では多少改善されたとはいうものの、决して快适とはいえない环境の中で、ミリメートルやセンチメートルという単位の気の远くなるような作业を支えているのは、当时から今に伝わる研究室の暖かさかも知れません。
 

あとがき

古瀬先生は、「考古学は総合雑学」と谦逊されます。遗跡から発掘される人の头盖骨は、縄文人の特色である彫りの深い颜立ちのものがあったり、现代人につながる细长い形のものがあったりして兴味深い。化石人类の头顶部の形からは、顎の発达状况まで読み取れるとも。また、小さく细い骨格から、当时の人が随分小柄であったと推定されるが、脚の骨の断面は楕円形をしていて、発达した筋肉がついていたことがわかるといいます。お话しを伺っていると、鉄や塩だけでなく、考古学的视点で科学する対象はますます増えていきそうです。
今回の取材で、考古学という学问の奥深さを知りました。笔者のレベルでさえ、学び进んでいくうちにいろいろなことと结びつき、「アッこれだったんだと気づく」ことがあります。学问の楽しさもこんな感じなのかも知れないと想像しました。
実はもうひとつ。先生が蒲刈で作られた藻塩を试食して感激。何もなくても、このままで酒の肴になりますね。せんせい!(O)

「こさげて(広岛弁?)なめてごらん。おいしいでしょ!」先生画像

「こさげて(広岛弁?)なめてごらん。おいしいでしょ!」

教授手作りの藻塩

教授手作りの藻塩


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