麻豆AV

第3回 布川 弘 教授 (大学院総合科学研究科)

歴史は「今であり未来」原爆投下の歴史的意义を共有し、核兵器のない未来を目指して

大学院総合科学研究科 (ぬのかわ ひろし)教授

に聞きました。(2008.3.11 学長室広報グループ)

復兴から见るヒロシマ

布川教授は、现在、「平和科学研究プロジェクト」のリーダーとして、「ヒロシマの復兴」をテーマに研究を行っています。「原爆投下」と言うと、これまでは被害の侧面ばかりが取り上げられてきました。しかし、布川教授率いるこのプロジェクトは、原爆投下からヒロシマがどのように立ち上がってきたのか、復兴の过程に重点を置き、歴史学、文化人类学、心理学などの异分野の共同研究者や大学院生からなるプロジェクトメンバーと共に、さまざまな资料や闻き取り调査をもとに明らかにしようとしています。

   

復兴の発端に「原爆投下の正当性」の刷り込みがあった

ヒロシマの復兴の発端は、当时のアメリカなどの核保有国によって作られた枠组みに影响を受けている、と布川教授は指摘します。戦后のヒロシマでは、「原爆投下の正当性」を人々に刷り込もうとして、「原爆が落とされて平和になった」という宣伝があちこちで见受けられたそうです。(布川先生の教え子の一人は、そういった戦后の「宣伝が与えた影响」をテーマに修士论文を発表されたのだとか)布川教授は、こういった政府见解が未だに否定されずに残っており、それに多くの人が共鸣しているため、核保有国の正当性が排除されず、核兵器の根絶につながらないのだと、考えています。

 

歴史学的にアプローチする

布川教授の研究では、この「原爆投下」という过去の事実について、歴史学的なアプローチを试みています。歴史学的アプローチとは、过去の资料や文献に基づいて、客観的に歴史を捉えていこうとする手法です。
例えば授业で学生たちに「なぜ広岛に原爆が落とされたのか?」という问いを投げかけたそうです。学生たちからは、「広岛が军事都市だったから」「当日の広岛が晴れていたから」という答えが返ってきました。布川教授は、アメリカの目标选定委员会によって决められたのだと解きます。しかも、いくつかの候补地の中で最初の目标は京都だったこと、京都に被害を与えると日本人の精神的なダメージが大きく反米感情を煽るため、戦后の占领政策に障害が出ることを危惧して、京都の次の候补地であった広岛に决めたこと、なども。こういったことも、过去の资料を基に、判明したことでした。

「时间が経つと记忆は薄れますが、これまで封印されていた机密文书が公开される。そうして、过去の事実を検証していけるんです。それが歴史学のいいところ」と布川教授は语ります。布川教授は、こうした歴史学的アプローチにより、今なお残っている「原爆の正当性」に対する肯定的见解も、核保有国によって歪めて形成されてきたのだということを検証していき、払拭しようとしているのです。

   

学生たちに教える「ヒロシマ学」

布川教授は、もう10年以上、「ヒロシマ学」という讲义を学生たちに教えています。讲义を受けていく中で、原爆投下の歴史を目の当たりにし、ショックを受ける学生も多いよう。「あのような非人道的な行為のあとに、今の民主主义の世の中が作られているということにショックを受けるのでしょう」と布川教授は捉えます。

ヒロシマ学では、被爆者の方のお话を闻くこともあるとか。ある被爆者の方は、被爆后60年経ってやっと冷静に被爆の事実を见られるようになった、自分は生きることで救われてきた、一瞬で跡形もなく亡くなった人たちの记忆を継承させなくてはならない、その想いが语らせてくれるのだ、とおっしゃるそうです。布川教授は、被爆者の方が、その体験をどのように乗り越えてきたのかという人生の在り方を闻くことで、个人レベルの復兴の过程を捉えようとしています。

 

未来への课题

今もなお世界のどこかで起こっている纷争や戦争は、「报復の连锁」である、と布川教授は考えます。

「先日、韩国から来日した学生に、『なぜ日本は报復しないのか?』と闻かれました。???答えられませんでしたね。これに答えなくちゃいけない、と思いました」と布川教授。教授は、ヒロシマの体験は世界で唯一の体験であり、ヒロシマの普遍性、ヒロシマ発のメッセージを世界の人々は强く期待している、と感じています。
教授の平和への追求は、明日へと続いていきます。

 

布川教授のブレークスルー

布川教授は学生の顷、明治时代の下层社会について研究していたそうです。そんなとき、ある一册の本と出会いました。社会的弱者の解放运动に取り组み、ノーベル平和赏候补にもなった、贺川豊彦氏の初期史料集です。
贺川氏は、日中戦争后の神戸のスラムに自ら住み込み、贫しい人々を救済しようとした人物。そんな贺川氏がスラムで生活していた顷の日记が、初期史料集の中の『露の命』に掲载されています。布川教授はその日记から、贫しく悲惨な状况下でも生きようとする人々の中に在る主体性を强く感じとり、感铭を受けたのでした。
布川教授が原爆を「復兴」という侧面から捉えようとしたのは、そういった源流があったからなのでしょう。

贺川豊彦氏の初期史料集

布川教授が分担执笔された本

左が『日本史講座 第8巻 近代の成立』(東京大学出版会)。右が『HIROSHIMA』(現代史料出版)

あとがき

布川教授の一言一言に力强さを感じ、研究への想いや使命感が伝わってきました。感铭を受けたという前述の贺川氏の本には、付笺がたくさん!読み込まれた跡がうかがえました。その本を読んで受けた衝撃が、现在の研究の粮になっているのだなあと、その一贯した姿势に感动しました。(惭)


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