久保田 啓一. 国文学攷.2013, 218, 1-15, 02873362.
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歴史をたどる手段として、その时代に出版された书籍を研究することに加えて、日记や手纸を読み解くことも重要です。それによって、その时代を生きた个人がどういった人となりで、何を本当は考えていたのか、また、その时代背景を详细に知ることができるのです。本研究は、江戸时代后期に広岛で活跃した国学者の近藤芳树が、広岛の地に本拠を构えるまでの経纬と彼の人となりを、日记や书简の研究を通じて明らかにしました。

(くぼた けいいち)
教授
広岛大学大学院文学研究科 日本?中国文学语学讲座
研究分野 人文学 / 文学 / 日本文学
国学は、日本の江戸時代中期(17世紀末~18世紀)に始まった古典学で、その扱う範囲は文学、歴史学、神道学など多岐にわたります。江戸時代後期に活躍した国学者の近藤芳樹(こんどうよしき、1801~1880)は、郷里の周防国岩淵(すおうのくに いわぶち、現在の山口県防府市)を起点として、各地を転々としつつ国学に打ち込み、萩藩の武士である近藤家の養子となった後も、諸国の知友と交流を重ねながら勉学に励む生涯を送りました。芳樹の前半生の拠点のひとつが、安芸国広島(あきのくに ひろしま、現在の広島市)であったことはよく知られています。しかし、これまでの研究では、芳樹がいつ広島の地で国学を教え始めたのか、どのような人脈にもとづく活動だったのかは、必ずしも資料の裏付けによって確定していたわけではありませんでした。本研究では、山口県文書館所蔵の「近藤芳樹日記」や「近藤芳樹書簡集」、さらに安芸国壬生(みぶ)の神職であった井上頼定(いのうえよりさだ)に宛てた芳樹の書簡などを読み解き、芳樹が広島の地に本拠を構えるまでの経緯を詳細に辿りました。それによって、処世術に大変長けた彼の人柄が各地の多くの人を惹きつけ、その人脈が当時の学術界で奮闘する彼を支えたという、非常に人間的な側面を知ることができました。

近藤芳树写真(山口県文书馆提供)
京都?大坂に近い和歌山で学んでいた文政7年(1824)、国学の系统で最も有名な本居(もとおり)家の养子となるオファーに心を动かされながらも、名门を継ぐだけの自信がない芳树はそれを断り、勉学に有利な京都?大坂にとどまれば本居家に対して面目が立たないと判断して、远く离れた山口の萩や九州?広岛あたりを本拠として勉学を継続しようと考えていました。天保元年(1830)、京都で井上頼定と恳意になり、国学者がまだ本格的に活动していなかった広岛で国学の振兴を図りたい旨を伝えました。翌天保2年(1831)、頼定の世话を受け、郷里の大庄屋で金銭的支援者(パトロン)であった上田堂山(うえだどうざん)の绍介も得て、広岛の学术界の大御所であった着名な儒学者の頼杏坪(らいきょうへい)と面会し、広岛の地で初めて国学を讲じることができました。一方で、杏坪は芳树の軽薄な人柄を嫌い、あちこちで悪口を言いふらしていることも芳树の耳に入り、堂山宛の书简で愤まんをぶちまけています。当时の歌坛时评的な随笔『寄居歌谈』(ごうなのうたがたり)巻叁には、広岛に进出した当时の杏坪との出会いを记し、杏坪の人物と学问を褒め称えていますが、それは本心とはまるで违っていたのです。歴史の真実を知るためには、古人の着述を文字通りに受け取ってはならないことがよく分かります。

『寄居歌谈』(版本)巻叁の頼杏坪関连记事(1)

『寄居歌谈』(版本)巻叁の頼杏坪関连记事(2)

この记事は、学术?社会连携室と広报グループが作成し、2017年に公开したものです。