町田 章. . 日本認知言語学会論文集. 2012, 12, p.246-258.
日本语を外国語に翻訳しようとすると、文法や単語の意味に注意が向きます。コンピュータを使って行う時も同様です。しかし、町田先生は、AI(人工知能)の活用が進めば進むほど、それでもうまく翻訳できない要素の存在がより明らかになってくるだろうと考えています。普段何気なく使っている言葉には、私たちが気づいていないだけで、ものの見方や認識、文化、コミュニケーションなど様々な要素が含まれているからです。今回ご紹介する研究などで、言語によって異なるものの見方、つまり言葉の奥に隠れている人の「心」の動きが理論化できれば、AIによる翻訳がもっと人に近くなってくるかもしれません。

(まちだ あきら)
准教授
大学院総合科学研究科 人间文化研究讲座
研究分野 人文学 / 言語学 / 言語学
一般に、日本语では話者が主語である場合、その主語が省略される傾向があるといわれています。例えば、「昨日、公園に行った」と言う場合、通常、主語は表現されません。もちろん、省略された主語を補って「昨日、僕は公園に行った」ということも可能ですが、通常は主語を省略します。
ところが、一见、同様の现象に见えますが、実际には主语の省略とはいえない现象もあります。例えば、料理番组などでよく使われる「まず、野菜を炒めます」のような表现です。

このような表现は主语の省略とみなすことはできません。主语を补って、「まず、{私が/あなたが/私たちが}野菜を炒めます」と言ってみても、どれも不自然だからです。このような理由から、このような场合を主语の省略とみなすことはできないのです。
本研究では、上记のような问题を人间の状况を认识(事态认识)する観点から検讨しました。例えば、话者がボクシングをしている状况を考えてみましょう。少なくともこのような状况には、二通りの构図のとり方があると考えられます。

図1(自分の目线)

図2(第叁者の目线)
図1のように他者しか知覚されない构図と図2のように自己と他者が対峙する构図です。どちらの构図がより现実に沿っているかというと、当然、知覚者である自己が知覚対象になっていない図1になります。自分から自分を见ることは不可能だからです。
それにもかかわらず、図2のように自己を知覚対象とすることも実际には可能であり、このように自己を対象化することを客体化と呼びます。
そして、このように自己を客体化せずに、话者の事态认识がそのまま表现されたものが「まず、野菜を炒めます」のような表现であり、この表现で主语が现れないのは、図1のように行為の主体である话者からは自分自身の姿が见えないからなのです。
つまり、この例は话者からの见え方をそのまま述べた文なのです。本研究では、このような事态认识のあり方と言语表现との関係を検讨にすることにより、主语の省略だけでなく、様々な言语现象の背后にある认知プロセスを明らかにしました。

町田先生の着书

この记事は、学术?社会连携室と広报グループが作成し、2017年に公开したものです。