麻豆AV

弥生時代の墳丘墓 ― 前方後円墳の遠いルーツは広島だった!?

 土や石を积み重ねて丘のような形にしたお墓を坟丘墓と呼びます。これまでの発掘调査で、その発祥地が弥生时代の広岛県北部の叁次(みよし)?庄原(しょうばら)地方であり、そこで生まれた四隅突出型の坟丘墓(弥生坟丘墓)が山阴地方を経て、形を変えながら伝わった最终的な形态が前方后円坟であることが明らかになりました。広岛県北部に残っている坟丘墓の构筑方法と葬送仪礼の変迁について、発掘调査で明らかになったことを解説します。

书誌情报など

野岛 永. .. 麻豆AV, 2015, p.1-12.

研究者プロフィール

(のじま ひさし)

教授?文学博士

大学院文学研究科 地表圏システム学讲座 

研究分野 人文学 / 史学 / 考古学

 西日本の山阴地方および、その周辺地域となる中国山地は、日本の古代社会である弥生时代(纪元前4世纪~纪元后3世纪中顷)のなかでも、もっとも古く坟丘をもつ墓(坟丘墓)が発达する地域の一つです。弥生时代の坟丘墓は、古坟时代(3世纪中顷~6世纪)に成立する前方后円坟以前のルーツとなる坟墓であるといってよいのです。

広岛大学文学研究科のオープンキャンパスの时の出土遗物の展示の様子(2016年8月17?18日)

奥、1970年代、イラン北部周辺で出土した青铜柄バイメタル剣(初期鉄器时代、今から约3000年前)

手前、広岛県の古坟から出土した装饰品と青铜镜(古坟时代前期、今から1700年前)

 平成2008年度から6年间、広岛大学大学院文学研究科考古学研究室では、広岛県北部、中国山地のなかにある佐田谷(ささだに)?佐田峠(ささだお)坟墓群の発掘调査を行ってきました。佐田谷?佐田峠坟墓群は四隅突出型(よすみとっしゅつがた)坟丘墓を中心とした坟墓群です。この発掘调査によって、西日本の山阴地方と中国山地における坟丘墓の展开について具体的な様相を明らかにしました。その重要な成果のひとつとして、坟丘墓の构筑方法の変化の过程がわかったことがあげられます。弥生时代中期末に筑造された佐田峠3号墓は墓穴を掘り、遗体の埋葬を行った后に、盛土を行いましたが、これを繰り返したのち最终的に坟丘を成形する「同时进行型」の构筑方法であったことが判明しました。これに対し、后期初头となる佐田谷1号墓は土盛りを行い、坟丘を形成してから、墓穴の掘削?埋葬を行う「坟丘先行型」であることが判明しました。

広岛大学文学研究科?文学部で実施した佐田峠3号墓の発掘调査の様子

(2008年8月、四隅突出型坟丘墓の隅部分の検出の様子)

 我々の调査研究によって、山阴地方から中国山地では、弥生时代中期段阶には墓穴を掘り、1度埋葬を行った后に盛土を行う「坟丘后行型」か、「同时进行型」が盛んに行われることがわかってきました。また、后期には、「坟丘后行型」?「同时进行型」から「坟丘先行型」に変化していきました。さらに、埋葬施设や墓前祭祀の変化も同时に现れました。坟丘墓の构筑方法の変化が、首长埋葬の际の、葬送仪礼の変化(拡大化?荘厳化)の契机となっていたことを実証的に理解することができたのです(図参照)。

 弥生时代后期に出现する「坟丘先行型」の佐田谷1号墓は、坟丘裾の列石と坟丘斜面の贴り石、坟丘に付设される突出部(最终的には前方后円坟の前方部へと継承される)、木棺をおおう木槨(もっかく)施设の导入、墓穴上の丸い小石と朱涂りの大型土器、巨大な墓壙をもつ中心埋葬とその周囲に周辺小埋葬の存在、などといった要素が初めてみられるようになりました。これらの诸要素は各地の大型?巨大坟丘墓に継承されることとなります。つまり、佐田谷?佐田峠坟墓群は、弥生时代后期后叶に山阴地方や冈山県南部、京都府北部の丹后半岛などで顕着となる大型坟丘墓のルーツとなる坟丘墓としての特徴を有しており、坟丘墓の変迁を见る上で极めて重要な遗跡であることを指摘しました。

 

 

ドイツ?チュービンゲン大学で行われた坟丘墓の国际学会

(2015年11月4~6日、国際学会“Burial Mounds in Europe and Japan”)の際に

记念撮影したマグダレーネンブルグ坟丘墓の様子

 なお、本研究は坟丘墓の构筑方法と葬送仪礼の相関関係にも踏み込んだものであり、日本のみでなく、海外の坟丘墓研究にも比较考古学的视点を提供しうる基础的考察でもあるのです。

 

この记事は、学术?社会连携室と広报グループが作成し、2017年に公开したものです。


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