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研究者への轨跡

君の求めるものは、君自身の中にきっとある。

氏名:岩田 耕一郎

専攻:数学専攻

职阶:准教授

専门分野:确率论、数理物理学

略歴:
昭和57年3月 東京工業大学理学部応用物理学科卒業
昭和59年3月 東京工業大学大学院理工学研究科修士課程
応用物理学専攻修了
平成1年3月 東京工業大学大学院理工学研究科博士課程
応用物理学専攻単位取得退学
昭和63年10月-平成2年3月 ルール大学SFB237研究員
平成2年4月-平成4年3月 ビーレフェルト大学BiBoS研究員
平成4年4月 北海道大学理学部講師
平成7年4月 北海道大学大学院理学研究科助教授
平成9年4月 広島大学理学部助教授 現在に至る

 

楽しみながら子どもの职业や社会への関心を育てる体験型テーマパークとやらが最近东京にオープンしたそうである。詰め込み教育ではなく、社会との関わりや体験を轴にした教育が求められ、子供のうちから职业について考える机运が出てきているのを受けてのことだそうだ。しかしそのようなのはあくまで各人の持つ水脉を见つけるための呼び水であるにすぎない。ハリウッド映画的な派手な演出が过剰で、个々の持つ固有のおもしろさをぼやかし埋もれてさせてしまっているようで私は违和感を覚える。
 

伟い人の名をあげて、虎の威を借りるというのはよくやる手なのでそれに习うことにしよう。数学におけるノーベル赏といわれるフィールズメダルを日本人で最初に受けたのが小平邦彦氏である。氏の业绩の一つに碍辞诲补颈谤补-厂辫别苍肠别谤理论と呼ばれる、ある种の构造がどれくらいの変形を许容するかという研究がある。それを解説する本の前书きに、过程で得られる高扬感はそのときだけのものであって时间がたつと本人でさえそれを共有することができないものかも知れないと述べられていた。
 

この场は、研究者になった动机や経纬などの「経験的语り」をホームページ上で公开することにより、各研究者の个性を大いにアピールというものらしいので、私の水脉とか言うものを(それが如何ほどのものかは兎も角)书くことにしよう。
 

まず幼少の顷から自然科学的なものに兴味があったのは确かである。これは元々そうだったとしか言いようがなくどうしてそうかと言われても困る。それはさておき、今から思うと冷や汗もののかなり危ないことをしていた。思いこみで自己流の电気回路なるものを作ってそれをコンセントに差し込んでショ?トさせ家のヒューズを飞ばしたことがあった。また中学のクラブ活动では科学部に所属していたが、理科室に入れることをいいことにして、胜手に稚拙な実験をしてガラス器具を壊してみたりという次第である。ここまではお饭事であったが、用意されたものに饱き足らないという倾向はその后も続く。
 

わずかな危険も回避され、思惑通りの结果だけがでることだけを体験して果たしてよいのかと思う。设定された枠内での自由しか与えられず想定外のことを嫌う倾向がますます强まっている。しかし考え方の范囲を缚るのは得策ではない。必要最小限のものを精选しそれだけを确実に习得するというのは案外难しいのではないか。逆説的に闻こえるだろうが、詰め込み教育(?)であるべきだと思う。たとえ理解できないものであっても一度はいったん体内に取り入れることが必要なのである。まさに右の耳から左の耳に抜けるという言い方があるがそれでよいのだと思う。そのうちの几分かは吸収され血となり肉となる。各人が使い胜手のよいものを选んでいけばよい。
 

「経験的语り」にもどる。学部3年の学生実験でのことである。装置の电気回路が思わしくなく、マニュアルにあるような结果が出ないと评判の立つ课题があった。半田付けの仕方がいけないだろうと思いこみ、部品を全部はずして作り直したことがあったが结局失败だった。时间が许せば原因を究明したかったのであるが???
そんな経纬から読み取れるように、高校2年までは电子工学を専攻してメーカーに勤めて研究开発にたずさわると考えていた。その一方マイナー科目の地学を选択していた。履修者が少ないので、担当の先生と亲しくなりフィールドワークと称して山登りに行ったり、洞穴に入ったりということもあった。これも今から思うと冷や汗ものである。洼地などは有毒ガスが溜まっている可能性があり危険だったろう。そのころ小松左京作の日本沉没という小説が话题になっていた。その影响かも知れないが地震を研究したくなり受験直前には地球电磁気学で有名な力武常次先生につくことへと希望が変わっていた。これが学部での学科所属の选択を左右した。しかし彼はまもなく退官であったことを后に知ることとなる。
 

现在の専门につながる契机は学部3年の时にあった。そのころ热雑音とか揺らぎなどの现象に兴味があり、统计物理学を研究することに志向が倾きつつあった。そんな折、江沢洋先生が集中讲义でブラウン运动の话を闻く机会があり、确率微分方程式というものに初めてふれることができた。また数理物理学という分野を强く意识するようになったのである。
 

江沢洋先生には后に多大なお世话を受けることになった。大学院に张ってからは学习院での江沢ゼミに参加でき、そこでネタを见つけ修论をかくことができたし、またドイツ留学にあたっても有形无形の便宜をはかってもらえたのである。
 

幸せの青い鸟という物语がある。幸せは案外身近なところにあるという内容だったと思うが、私はこれを次のように解釈したいと思う。
求めるものは、私たち自身の中にある。


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