
金鱼(近所)迷惑な话
氏名:三吉 克彦
専攻:化学専攻
职阶:教授
専门分野:无机化学、错体化学
略歴:
1968年 広島大学理学部化学科卒業
1973年 広島大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)
1973年 広島大学理学部助手
1975-76年 英国ロンドン大学キングスカレッジ博士研究員
1987年 広島大学理学部助教授
1989年 同教授
人间、母亲の庇护から解放されるにつれて、自分を取り巻く环境に兴味を抱くようになるのは当然である。とりわけ动?植物は幼児の最大の関心事であり、母亲が嫌がる蛙であれ、蛇であれ、面白いものは面白いし饲ってもみたくなる。また季节ごとに近所で実っている柿、イチジク、ザクロ、ビワなど、空腹を癒してくれるものは有り难い(この顷から数学に兴味がある子供がいたら、それは一种の尘补诲肠丑颈濒诲である)。今思えば近所迷惑なガキであった。
もう少し成长して、ものの理屈が分かり始めた顷、家では庭の池で金鱼を饲っていた。春、5月になると、雄の金鱼が雌を追っかける行动を始める。近所で野良犬が交尾しているのも私には教育的効果を与えたが、金鱼についてはもっと知的な刺激があった。それは毎年4月に行う池の扫除であった。金鱼を别の容器に移した后、池の水を抜き、ゴミを除いた后、新しい水道水を入れる。これには杀菌用のカルキが含まれているので、金鱼鉢の场合はしばらく日光に晒すのがよい(あるいは井戸水を使う)、というのを何かの少年雑誌で読んだことがあった。
ところが、父亲は白い粒(结晶)を溶かした水を池に加え、しばらくして金鱼を元に戻した。金鱼は何事もなく、元気に泳いでいた。父亲がどこからこのような情报を仕入れてきたのかは知らないが、この薬品は金鱼迷惑なカルキを処理する実に便利なものであると感心した。
それから7-8年後、高等学校での化学の授業で、ハロゲンX2をチオ硫酸イオンで還元するという反応が登場して、この薬品の正体が判明した。反応式でいえば、X2 + 2S2O32-→ 2X- + SO3S-SO3S2- であり、要するにチオ硫酸イオンが金魚迷惑な塩素分子Cl2(カルキ)を塩化物イオンに還元する反応である。川の水には雑菌が含まれ、これを飲料水に供するには人間に害がない量のカルキで殺菌する必要がある。ところがこの程度の残留カルキでも金魚にとっては甚だ迷惑であるから、これをチオ硫酸イオンで無毒化してやるのである(金魚の餌になるミジンコはもっと敏感で、水道水に入れるとすぐ死んでしまう)。父親が池に入れた結晶は写真の現像にも使われるチオ硫酸ナトリウム(別名ハイポ)だったのである。おお、化学は結構役に立つではないか。これが私が大学で化学を専攻することになったきっかけの一つである。
余谈になるが、ミジンコの饲育(研究?)で知られるミュージシャン坂田明氏は呉市広出身で、本学で私とほぼ同期であり、在学中若干の交流があった。彼は水畜产(现生物生产)学部を卒业后、确か九州の酒造会社に一旦就职したが、ミュージシャンの梦捨て难く、九州出身のジャズピアニスト山下洋辅氏の引きでサックスの演奏者として现在に至っている。
こうして役に立つ学问として「化学」を意识し始めたが、化学を専攻しようとした动机はこれだけではない。当时化学を担当していた教师は30半ばのバリバリで、実に明快に讲义してくれた。受験対策についても万全で、この先生が解けない入试问题は皆无であった。そのお阴で化学の成绩は良かったが、私にとって化学は高い得点がとれる科目という位置づけではなかった。兴味があるから飞丑测を何度か教师に投げ掛けたが、高校の范囲を超えるからという理由で纳得のいく解答は得られなかった。私はこの教师に不平不満を述べたいのではない。今振り返ってみると、実に优秀で人间的にも尊敬すべき教师であったし、自分胜手な私の质问は授业の进行の妨げになっただろうし、たとえ正しい解答が与えられたとしても当时の私の理解を遥かに超えていたに违いない。疑问は自分で解决すべきで、そのために本格的に化学を勉强しようと、大学では化学を専攻することにした。
当时の大学はでのんびりしていて、教养课程では100分で週2回の英语を2年间、第2外国语(ドイツ语)も同じコマ数であった。さぞかし外国语が堪能になったと思われるが、英语はともかくドイツ语は化学论文を辞书を片手に辛うじて読める程度でしかない。肝心の化学は高等学校でのそれとはまるで违う。むしろ违うことを期待していた私にとっても相当のカルチャーショックであった。特に(化学)热力学は精神的に幼かった私を大いに悩ませた。いわば构造のない化学であり、ほとんどイメージが沸かないのである。热力学が化学を理解するための重要な学问であることに気付いたのはずっと先のことである。
こうして化学とはこんなことを勉强する学问だったのか、と悩まされ続けて4年间を过ごしたわけであるが、卒业する顷には少しずつ自分の进むべき方向が见えてきて、専门を无机化学分野に绞ることにした。子供の私を刺激したあの反応が无机反応だったからというわけではなく、无机化学には多様性があり、取っ付き易そうに思えたからである。
その后を超特急でまとめると、大学院では无机溶液化学の研究、助手に採用されてからは错体化学の研究、さらに最近では有机金属错体の研究?教育に従事している。无机化学の讲义でこの反応を解説する度に私の原点である「金鱼迷惑」を思い出すが、これは単に化学が一生の生业となったきっかけに过ぎない。
约40年间の研究?教育活动を振り返ってみると、大学院时代の同僚であり、互いに切磋琢磨した滨氏、驰氏、罢氏の存在が私にとって最大の宝である(当时の指导教官の谁よりも)。彼らとはよく安酒を饮み、议论を交わし、计り知れない影响を受けた。大学とは、共通の価値観と目的意识をもった(大人の)友人を见つける场でもあると、定年を间近に控え痛感している次第である。「妻を娶らば才たけて见目丽しく情けある(これが実现したかどうかは甚だ怪しい)、友を选ばば书を読みて六分の侠気四分の热(これは実现された)」。定年退职后は文字通り近所迷惑にならない余生を送りたいと思っている。大学进学を目指す高校生诸君の健闘を祈る。