
「はあ、ボーダーラインですが」「はっ、はあ、はっい」
氏名:道端 齋
専攻:生物科学専攻
职阶:教授
専门分野:分子生理学
略歴:昭和22年石川県轮岛市生まれ。昭和46年新潟大学理学部生物学科卒业、昭和51年东京大学大学院理学系研究科动物学専门课程博士课程修了(理学博士)。富山大学理学部讲师?助教授を経て平成3年広岛大学理学部附属临海実験所助教授、翌年同教授。平成15年9月より理学研究科生物科学専攻教授。この间、日本学术振兴会ナポリ临海実験所派遣研究员、米国ブランダイス大学化学教室博士研究员を勤めた。约30年前からホヤのバナジウム浓缩机构の研究を开始し、一连の仕事で平成7年度日本动物学会赏と井上学术赏を受赏した。独自性のある研究分野のさらなる开拓を目指している。
いずれ本当のことが分かりますよ
新潟市中心部の古町から海に向かって坂を上っていくと、突き当たりに旧制新潟高等学校以来の古ぼけて床ワックスの强い匂いのする新潟大学理学部の校舎(図1)があった。昭和42年私が入学してまもなく新潟大学でも移転问题をきっかけに大学纷争が始まった。生物学教室では教官间での揉め事が学生を巻き込んだ大众団交に発展した。助教授だった岩泽先生は発言を强いられると「いずれ本当のことが分かりますよ」と淡々と话された。

はあ、ボーダーラインですが
昭和45年3月最终学年が近づき卒论の研究室を选ぶ时、岩泽先生のことが浮かんだ。先生の研究室には1年前に弘前大学から来た大学院生の佐藤矩行さん(现京都大学大学院理学研究科教授)のみで、卒论生はいなかった。噂では「あそこはダメ」というものだった。しかし、大众団交の时の先生の言叶が心に残っていた私は、ここしかないと思い込んで部屋を访ねた。先生は「ええ、いいですよ、他に二人希望していますがまあ何とかなりますよ、ええ、あんた単位は足りていますか」と闻かれた。「はあ、ボーダーラインですが」と答えて、研究室に入れてもらった。
3年生までとは确実に违う毎日
校舎の一番奥に狭い研究室があった。先生と修士2年の佐藤さん、先駆けて入室許可を得ていた学年一番の才媛小柳久子さん(新潟大学歯学部助手を経て主婦)、二番の森本健一君(現信州豊南短期大学教授)、ボーダーライン生の私がひしめき合った。先生から「ええ、道端君、床下の甕にガマガエルが入っているから、あんたは精嚢の季節変化を見て下さい」と卒論を言い渡された。3年生までとは确実に违う毎日が始まった。朝から夜中までブアン固定液で手を真黄色にしながら、精嚢を剥き出し、ミクロトームを廻し、顕微鏡で観察し、アッベの描画装置でスケッチした。先生の予想に反して、ガマガエルの仕事は2週間足らずで完了した。有頂天の私に、先生は「ええ、道端君、トノサマガエルもあるから今度はこれをやって下さい」と床下から別の甕を11個引き上げ、中からそれぞれ20匹前後の黄色く染まったカエルを出してくれた。
新しい研究室に満足げ
昭和45年5月末理学部は五十嵐浜へ移転することとなった。その先遣队として私はカエルを抱えて移転の完了した教养部の臼杵格先生の部屋で卒论を続けた。トノサマガエルの精嚢剥きが终わった顷、新筑の研究室に全员が揃った。初めて4人もの学生を持った先生は、暇ができると実験室に来て冗谈を言い、新しい研究室に満足げだった。
鸣き声が漏れるクーラーボックス
6月には全員で弥彦山へタゴガエルの卵塊の採集に出かけた。小柳さんのテーマはタゴガエルの性分化だった。彼女が、孵化したオタマジャクシを愛おしむように飼育する横で、私はモリアオガエルとシュレーゲルアオガエルの精嚢剥きを始めた。なぜ私だけ固定したカエルを解剖させられるのだろうと思い始めた。佐藤さんは慰めるようにラグビーのパスを手ほどきし、トノサマガエルの採集に羽越本線の金塚まで連れ出してくれた。ゲロゲロと鸣き声が漏れるクーラーボックスと玉網を担いで研究室に戻るとストレスは解消していた。
じゃ、みっちゃん言うけど
秋に福冈で开催される动物学会の〆切が近づいた6月末、先生から「ええ、道端君、あんた学会で発表しますか」と思いもよらない言叶を掛けられた。自分の手がけた仕事に学会発表の価値があることを知った私は、「学会まであと何日」と黒板に书き込み、夜中まで佐藤さんと仕事に励んだ。学会が近づいた顷、先生から「ええ、道端君、今度の学会ね、あんたの仕事私が発表するわ、あんた行きたかったら行っても良いけど」と言われた。「はっ、はあ、はっい」と辛うじて答えた私は、落ち込んだ。最初は同情して私の愚痴を闻いてくれた佐藤さんは突き放すように言った「じゃ、みっちゃん言うけど、精嚢の仕事はあんたの仕事か、长年いろいろなカエルを一人で採集し瓮に溜め込んだのも先生、精嚢に目を付けたのも先生、仕事を缠めたのも先生、あんたはただ解剖しただけじゃないか」。研究の神髄を教えられた。この仕事の后、私も生きたカエルを使った仕事にありついた。
次はあんただ
当时新潟大学には博士课程はなかった。昭和46年春佐藤さんは东京大学の江上信雄先生の研究室に进学した。岩泽先生は「次はあんただ」とプレッシャーになるほどの期待を掛けてくれた。昭和48年春私が江上研に入れてもらった时、先生は「ええ、私は二回东大を受けたんですが、その时の试験监督は江上先生で二回とも落とされ、仕方なく东北大学へ行ったんですよ。ええ、佐藤君とあんたを东大に入れることができ、これで仇を取りましたよ」と心底喜んでくれた。
今一番忙しい时だから
进学先の江上先生からは放射线生物学を学んで千叶の放医研に派遣してもらい、异なる分野の研究に果敢に挑戦する勇気とその必要性を教えてもらった。そして大学院修了后赴任先の富山大学ではホヤを用いた金属イオンの浓缩机构の研究を行うようになり、私はどんどんカエルの仕事から远ざかっていった。
しかし、岩澤先生に出会うことがなければ「私の研究者への轨跡」はなかったかも知れない。その後岩澤研究室には次々と優秀な後輩達が入ってきた。書くことの大好きな岩澤先生は彼らとの研究成果を国際誌に多数発表する傍ら、啓蒙的な文筆活動やテレビ出演にまで活躍の場を広げられた。昨秋、先生は環境大臣表彰を受けられた。後輩達が門下生を集めた祝賀会を企画したところ「佐藤君や道端君は今一番忙しい时だから、もっと後で良い」というお手紙をいただいた。その直後の平成18年5月先生は急逝された。(本文は爬虫類両生類学報2006(2)に記載したものに手を加えました。)