
研究者への道のり…まだまだ、道半ばです。
氏名:田中 克幸
専攻:生物科学専攻
职阶:助教
専门分野:分子生物学
略歴:理学研究科助手。博士(理学)。 1969年生まれ。広島県立海田高等学校卒業、広島大学理学部卒業、広島大学大学院理学研究科博士課程修了。社団法人農林水産先端技術産業振興センター?農林水産先端技術研究所(STAFF研)研究員、王子製紙株式会社?新技術研究所研究員、広島大学理学研究科生物科学専攻助手を経て現在に至る。現在は、アグロバクテリアが植物にDNAを注入するメカニズムについて研究している。
研究者としては、自分はまだまだ半人前ですが、どのような过程を経て研究者になったのか、お话したいと思います。ほとんどの研究者の方は、「是非とも、この研究をやり遂げ科学に贡献するぞ!」と强い决意とモチベーションをもって、研究の道に入られたのではないかと思うのですが、私の场合は违っていました。
まず、研究の道を选択する最初の窓口となったのは、间违いなく大学受験でした。高校生の顷の私は、理系の国立大学に进学し生物を学ぼうと漠然と考えていました。当时の理由として、(その判断が正しかったのか否かは不明ですが、)「これからはバイオ!!」という情报に踊らされたからでした。生物系には、现在も一绪だと思うのですが、医学部?理学部生物系?工学部生物系?农学部と4つの选択肢がありました。医学部は、私の学力では到底受け入れて顶ける大学はなかったので、最初に除外されました。また、当时の私の知识として、工学部は、学部教育として生物に特に力を入れている訳でもないという印象が强く、これまた、いち早く除外されました。残る2つは理学部生物系と农学部です。大学受験は「あの大学に行きたい!入りたい!」というモチベーションも大切ですが、それと同时に「自分の学力に见合った大学を选ぶ」という非情なハードルも存在します。私は最初、农学部を选びましたが、敢え无く撃沉し、2年目の受験にて目出度く広岛大学理学部生物学科に入学することになりました。大学に入学后、3年间は自分の望み通りに、多くの生物に関する讲义を受讲する机会を得ました。そして「运命の」4年生を迎えました。
4年生になりますと、谁もが研究室に所属し卒业研究に取り组むことになります。私も、当时、4月から面倒をみて顶いていた先生の仰せのままにロボットのように実験をこなしていました。自分のなかでは、実験结果に対する自己责任という文字はありませんでした。しかし、9月もしくは10月顷、先生から「自分の卒业研究を学会(日本植物生理学会)にて発表するよう」告げられ、自分の中での卒业研究の位置付けががらりと変わりました。自分の実験结果が公众の面前で批判にさらされ、正当な评価が下されるわけです。(実际は、そのように大袈裟なものではないのですが…。)自分の评価というものは、こっそり成绩表をのぞき込んでその评価を知るという経験しかなかったものですから、当时の私は相当なプレッシャーを感じました。3月の学会までは一生悬命に、どうやったら実験が成功するのか、自分なりに考えながら実験を进めました。今にして思えば、これが崇高な科学に対して责任を负うという始めての行為でした。そのような大学での研究生活を経て、ついには学位取得に至りました。しかし、この段阶では、まだまだ、研究者としてはスタートラインに立ったにすぎません。そして、9年を経た今でも、研究者としては、まだまだ、半人前です。
私は、ある意味、他の研究者と比べますと、受动的に研究者の道を选んだのかもしれませんが、最终的に崇高な科学に対して责任を负うという行為はいずれの立场で研究者になっても同じではないかと思います。しかし、立派な研究者になるまでの道のりは远い…。