ケーキ屋さんから研究者!?
氏名:坂口 綾
専攻:地球惑星システム学専攻
职名:准教授
専門分野:放射化学(環境放射能) 核地球化学
略歴:1979年長野県長野市生まれ。2002年3月金沢大学理学部化学科卒業。2007年3月 同大学 自然科学研究科物質科学専攻で博士(理)の学位を取得。
日本学术振兴会特别研究员(厂笔顿)、広岛大学原爆放射线医科学研究所?助教を経て2009年4月より现职。
学振研究员、原医研在职期间にイギリス?シェフィールド大学、オーストリア?ウィーン大学にて游(学)。
内容↓
これを书かせて顶くにあたり、色々な分野や立场の研究者?先生方の「轨跡」を読ませて顶きました。ひとしきり感心した后で「自分はどうしてココにいるのだろうか」と振り返ってみました。そして気付いたこと…私って不纯…というか単纯…と。
「研究者への轨跡」を幾つか読んで「やっぱり研究者になるのはこういう人たちなのかぁ」と“別世界”だと思った方、そうとは限りません!私のように「子供○○科学賞」を取ったことがなくても、中学?高校で理系科目に格別興味があったわけではなくても、大学の成績が悪くても、あるとき突然何かに興味が湧き、魅かれ、気が付いたら没頭しているかもしれません。そういう時は、その瞬間?気持ちを大事にし、後は“単純(素直)”になって自分を信じて突き進んでください。それが面白いと思う限り。
以下は幼少期から今日までの道程を、文脉も気にせず徒然なるまま书き缀ったものです。
幼少期词大学入学
幼き顷の私は…(多分)普通の女の子でした。少なくとも、お世话になっている研究者の方々のように「昔から好奇心旺盛で、色々な自然现象について小学校の先生に质问しまくって困らせてたねぇ」とか「子供の顷は日が暮れて亲が迎えに来るまで森で昆虫の観察してたよ」などという记忆はありません。亲に买い与えられた子供向け科学月刊誌も开かなかった月が多かった気がします。将来の梦だったのは、甘いものが好きだったのでケーキ屋さん、ナース服に憧れて看护妇さん、ピアノを习っていたのでピアニスト、かっこいいからスチュワーデス。学校の先生、ましてや研究者になろうなんて考えは少しも浮かんではきませんでした。
中学?高校時代、理系科目の成績は悪いというわけではなかったのですが、特に好き?得意というわけでもありませんでした。それなのになぜ大学進学では化学科を選んだのでしょう? 高校の時の化学の先生が好きだったから、というのが一番大きな理由でした。その先生はとてもひょうきんで、生徒からも人気があり、何よりもとても楽しそうに授業や実験をしていました。「この先生が職業にするくらい好きな化学なんだから、絶対面白いに決まってる!」という思い込みからです。今思えば、あまりに単純すぎました(笑)。
大学入学词研究室配属
第一志望にしていた大学への入试は失败しましたが(お决まりです)、なんとか金沢大学理学部化学科に入学できました。ここからの叁年间は全く以て书くに値しない大学生活を送っていました。この时の私があるからこそ今の私がある!と自分に言い闻かせていいますが、まだ“时効”ではない気がするので详しくは伏せておきます。
さて、四年生から研究室配属になるわけですが、この研究室选びこそ、私の人生において最大のターニングポイントそしてファーストインパクト(!?)でした。研究室を选ぶ际、もはや色々な意味で「**化学」という研究室を选ぶ术がなく、どうしたものかと悩んでいました。亲しくさせていただいていた先生の研究室はどうかと直接相谈に行きましたが、当时の私の状况、考えや性格を考虑して强く勧めて下さったのは、化学科ではなく「低レベル放射能実験施设」という大学の附置研でした。自分の研究室に兴味があると言って来た学生に「サカグチには、あの研究室の方が合ってる!人と违ったことをやれっ!」と他の、しかも化学科でない研究室を勧めて下さった、この先生の勇気ある学生思いの(?)行动には、ただただ感谢するばかりです。そして「そうなんだぁ」と単纯に信じ、本学から远く离れた辺境の地(と呼ばれていた场所)への引っ越しをものともせずに决断した当时の自分にもニジュウマルをあげたいです。
研究室配属词现在
「低レベル放射能実験施設」ではその名の通り、放射能そのもの、または放射能をツールとする研究を主に行っていました。施設から20km離れた山の中に旧銅鉱山の坑道を利用した極低レベル?線地下測定施設を有しており、規模?測定レベルともに世界有数とのこと― 環境試料を扱う研究が中心だということもあって、化学科の雰囲気とは全く異なった所でした。地下測定施設に一人で行き、試料交換のために5-10kgの鉛ブロック延べ2トン分を手で移動させるとか、100L以上の液体窒素を1日毎に測定器に入れに行くとか、今となっては良い思い出です。
四年生前期までは、叁年生までと相も変らぬ生活を送っていました。その生活が少しずつ変わり始めたのは、指导教官や先辈にくっついて行った琵琶湖やカザフスタン调査?サンプリングの后からでしょうか。四年生の夏から秋顷でした。それからは、野外に出てサンプルを採取すること、そのサンプル分析すること、出てきた结果から事象を考察することがどんどん面白くなっていきました。それを肌で感じさせてくれたのは、“(良く言えば)少年のような心を持った”指导教官でした。その先生(师匠)のことは、またどこかの机会で绍介いたしますが、ご存知の方がいれば「あ词、もう仕方ないね(笑)」と言うこと必须です。学年が上がるにつれ、将来について考える机会や不安を感じることもないわけではなかったのですが、やはりここでも単纯に「研究したい、スキ、结果が知りたい!」の気持ちに従い突き进んでしまいました。今はあの顷と立场?事情が少し违うので「ちょっとオトナになって」立ち止まり考え込むこともあるのですが、基本的にはこのスタイルは変わりません。そして、とてもうれしいことに、一绪に勉强?研究してくれる学生さんがいるので日々彼らと一喜一忧しながら研究生活を楽しんでいます。